ダビデの目は衰えました
ダビデの目は苦悶で衰えたのです。そして、ダビデの目は敵のゆえに弱まったのです。
「苦悶」とは新改訳第三版では「いらだち」と訳されています。
ダビデには敵がいました。そして、そのため「苦しみ悶えて」「いらだって」いました。
ダビデは自分の「苦しみ」を見ました。そして、それをもたらす「敵」を見ました。ダビデの中で「いらだち」が大きくなりました。そして、ダビデの目は「衰え」「弱って」いったのです。
「苦しみ」「いらだち」を覚えるとき、私たちの「霊の目」は「衰え」「弱る」のです。「霊の目」が弱ると、「見えないもの」を見ることができなくなります。
「霊の目」が弱ると「信仰」によって歩めなくなります。「見えるもの」によって歩むことになります。そうすると、私たちの「苦しみ」「いらだち」は、ますます大きくなってしまいます。
霊の目が近視になる理由は、「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまった」からだとペテロは言います。
それは、つまり「恵み」を忘れてしまったということです。
「あなたの恵みのゆえに」とダビデは祈りました。「見える現実」を変えようと画策するのではなく、「見えない主の恵み」にすがって祈ったのです。ダビデは「霊の目」を回復する方法を知っている人でした。
私たちは恵みのゆえに救われました。私たちの罪はイエス様の血潮によってきよめられたのです。行いによるのではありません。「恵み」のゆえに信仰によって救われたのです。
「恵み」を忘れるとき、私たちの目は衰えて弱ります。自分の以前の罪がどのようにしてきよめられたのかを忘れてしまうとき、私たちは近視眼となるのです。
主の恵みを覚えて告白しましょう。主の良くしてくださったことを忘れてはなりません。
主の恵みを見つめるなら、私たちは信仰によって歩めます。「見えるもの」に振り回されず「見えないもの」によって歩むことができるのです。
私は、主をほめたたえます。
主の十字架の御業を永遠に感謝します。
主の恵みのゆえに救われました。
私は恵みを覚えて信仰によって歩みます。