【使徒17:26~27】
神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
ここではない別のどこかへ
誰でも一度はそのように考えたことがあるでしょう。
ここではない別のどこかに行きたい
ほかのところで生まれていれば
主は最善をご存知だと私は信じています。私の生まれた時代も、住まいの境も、主がお定めになりました。
わかっています。ある人たちにとってこの真理は受け入れにくいものであることを。
ある人は泣きながら訴えます。
「どうしてここに置かれているの?」
「なぜ、私はここで苦しんでいるの?」
「本当にこれは最善なの?」
主は最善をご存知です。
しかし、人の罪のため、またサタンの策略のため、その最善はゆがめられたり、覆われたりしているのかもしれません。本当にそこがあなたにとっての最善なのか私にはわかりません。
ただ確実な答えが一つだけあります。その答えはサタンが気づいて欲しくないものです。
それは神を求めさせるためです。そして神様は、あなたから「遠く離れてはいない」のです。手探りで探って、見出すことのできるところにおられます。
神は愛です。あなたを苦しめたり、痛めつけることを目的とは決してなさいません。私たちを苦しめ、痛めつけるのはサタンのやり口です。その目的は、神様と私たちを断絶することです。
サタンは「神は遠い存在だ」と思わせたいのです。苦しい場所にいる私を顧みてくれることはないと思わせたいのです。
いつまでこのような状況なのでしょう。そのように思う気持ちは私にもわかります。ここは本当に御心の場所なのでしょうか。そのように思ってしまうこともあります。あまりにも辛くて、神様の愛を疑ってしまうこともあるかもしれません。
それでも、ここで私たちは「神を求める」のです。
そして、「近くにおられる神」を発見するのです。サタンの策略に呑まれてはなりません。
神は遠く離れてはおられません。
主を求めましょう。私たちの手をも心をも主に向かってあげましょう。ただ主だけを求めます。
もし、その場所が御心でないと示されたなら走って逃げなさい。苦しむ必要など欠片もありません。
しかし、もしそこが置かれた場所であるならば、主の御心が成るように祈ります。主を求めて待ち望みます。
そうすれば、そこで、あなたは誰よりも主を知ることができるでしょう。そして、主は、あなたにとって、誰よりも近しい方となられるでしょう。
私は主を求めます。
私は主を求めるためにここに置かれています。
主はけっして遠く離れてはおられません。