Ⅰテサロニケ1:3
私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。
信仰から出ない働きもあるということです
「信仰から出た働き」とパウロは言いました。と言うことは「信仰から出ない働き」もあるということです。
私たちの「働き」は「信仰」から出ているでしょうか。
私たちの「働き」は、毎日その「真価」を試されています。それが「信仰から出ているかどうか」を試されているのです。
私たちは「何のために」「誰のために」働いているでしょう。
それが、世の中で働くことであっても、教会の奉仕であっても同じです。
私たちの「働き」の動機は何でしょう?
「報酬」でしょうか。
「義務」でしょうか。
私は、教会で働くことも、世の中で働くことも経験しました。どちらの働きにおいても、楽しいこともありましたし、辛いこともありました。
結局、どこで働いても「喜び」を持つことはできるし「不満」を持つこともできるのです。
必要なのは「信仰」です。私の動機が「信仰」でない時は、どこで何をしていても、それはただ「辛くて嫌な仕事」となったのです。
私たちは「信仰」によって生きなければなりません。
それは「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子を信じる信仰」です。
私たちの信仰は「キリストが私のうちに生きておられる」ことを確信させるものです。
そして、今日、ここに置かれていることは「自分の計画」ではなく「神の計画」であることを確信させるものです。
その場所が「失敗」や「過ち」によって仕方なくいる所だと、あなたが感じていたとしても、今日は「そこ」があなたの置かれた場所です。
その仕事が「不本意」であったとしても、今は「それ」があなたのやるべきことです。
明日は、主があなたを別の場所や他の仕事に導かれるかもしれません。
しかし、今日は、そこで「生きるのはキリストです」と宣言するのです。
私には何の働きもないと言ってはなりません。また、これは「私のやりたいことではない」と言ってはなりません。
あなたのうちに生きておられるのは「キリスト」なのです。今日は「キリスト」が、そこで働かれるのです。
あなたは「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子キリスト」を信じなさい。
その「信仰」によって、そこに「置かれて」いればよいのです。
ある人が言いました。
「真の献身のしるしは、骨の折れる仕事を光栄に思えるときに現れるのである」
「損だなぁ」「嫌だなぁ」と思うことを「光栄」だと思えたら素晴らしいですね
主は、あなたの「心」をご存じです。そして、あなたの「心」を喜んでくださいます。
あなたの働きを生み出すものが「信仰」つまり「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子を信じる信仰」でありますように。
今日、あなたの「信仰から出た働き」が大いに祝福されますように。
私のうちにはキリストが生きておられます
私は「信仰によって」生かされています