No.244 生きる手立てのすべてを投げ入れます

コイン

マルコ12:44
皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

だれよりも多くを投げ入れました

イエス様は、わざわざ弟子たちを呼んで言われたのです。

マルコ12:43
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

イエス様が弟子たちにお見せになったのは「ひとりの貧しいやもめ」でした。

彼女は「レプタ銅貨二枚」を献金箱に入れたのです。

私たちの感覚からすれば「200円」ぐらいと思ってもいいかもしれません。

欄外注釈によれば「1レプタ」は、1デナリの128分の1に相当する最小単位の銅貨であると書いてあります。

なぜ、イエス様は、わざわざ弟子たちを呼んでまで、この「貧しいやもめの献金」に注目させたのでしょう。

なぜ、この「貧しいやもめ」は「誰よりも多くを投げ入れた」と言われたのでしょう。

なぜなら、彼女が示したのは、主なる神様への「愛と信頼」だからです。

私たちの神様への「愛と信頼」は「何を持っているのか」ではなく、「どれほど持っていないのか」で量られるのです。

マルコ12:44
皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

皆は、自分が持っているものの「余り」をささげました。献金箱に投げ入れても、何も困ることはありませんでした。

けれど、この「貧しいやもめ」は「2レプタ銅貨」を投げ入れれば、もう手元には何も残らないのです。

イエス様は言われました。

彼女は「生きる手立てのすべてを投げ入れた」と。

大切なことは「献金の額」が「多い」とか「少ない」とかではなく、「生きる手立てのすべて」を主にささげるかどうかなのです。

「貧しいやもめ」は、すべてを投げ入れたので、彼女は、もう「何もない」という状態でした。

しかし、彼女のうちには「主への愛と信頼」が満ちていたことは明白です。

彼女には「何もない」ので、彼女の「すべて」が「主への愛と信頼」で満たされていました。

主は、私たちの「すべて」を「愛と信頼」で満たしたいと願っておられます。

しかし、私たちはなかなか「生きる手立てのすべて」を委ねることができないようです。

主に信頼していると言いつつも、実際は「主」と「金銭」「仕事」「経験」「世の知恵」「世の手段」に頼っているのです。

主に「加えて」何かを持っていないと安心できないと思ってしまうのです。

あなたが「加えて」持っているものがあるならば、主は「すべて」を満たすことがお出来になりません。主は「何もない」ところを満たしてくださるのです。

あなたの「生きる手立て」は何ですか?

それが何であったとしても「主」以外のものに「愛と信頼」を奪われてはなりません。

私たちは「生きる手立て」のすべてを投げ入れても、決して、行き詰ることはありません。

「何もない」は、主にあって「余りある」ようにされます。

あなたの握っている「生きる手立て」を手離しなさい。

そうすれば、主は御使いを呼んで言われるでしょう。

「ほら、あの者を見てごらん。誰よりも多く投げ入れたよ。生きる手立てのすべてを手離したのだ。今からは、わたしの愛で満ち溢れるようになるだろう」と。

あなたが「すべて」を投げ入れれば、あなたの「すべて」が満たされます。

私は、ただ主だけに信頼します
私の握っているものを示してください
私はすべてをささげます