創世記21:6
サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことを笑うでしょう。」
サラの人生で最大の喜びの日が訪れました
一年前のあの日、主は言われたのです。
サラが「心の中」で笑ったことを、主はご存じでした。
サラにとっては到底、信じられないことだったのですから仕方がないでしょう。100歳のアブラハムと90歳の自分に「子どもが産まれる」などと言われれば笑うしかありません。「またまたお戯れを」という感じだったのでしょう。
サラが「笑う」のも無理はないと思うのです。
けれど、それを見抜かれた主のお言葉には、少し「怒り」「非難」が含まれているように思えます。
「なぜ笑うのか」と主は言われたのです。それは笑われたことを「心外だ」と思われたからでしょう。
主は言われました。
「主にとって不可能なことがあるだろうか」
この一言ですべてが一変します。
「百歳の夫と九十歳の妻に子どもは生まれない」というのは「世の中の常識」です。サラは「世の中の常識」に基づいて「そんなことあるわけがない」と思って「笑った」のです。自分のようなものに「子どもが産めるわけがない」というあきらめの笑いです。
しかし、実のところサラが笑ったのは「主のことば」でした。
サラは「恐ろしかった」と思います。心臓がギクリとしたのではないでしょうか。冷や汗をかくとは、まさにこのことです。
「いや、あなたは確かに笑った」と主は言われました。
これは、責めたというより「まあ、見ていなさい」という意味を含んでいるように私には思えます。
主の「みことば」は成就しました。主は「サラのために行われた」のです。
多くの「笑い」がサラの周りにはありました。
サラ自身の「あきらめの笑い」や子どもができないことに対する世間からの「嘲笑」など。
アブラハムは、主が命じられたとおり産まれた子に「イサク」と名づけました。
「イサク」とは「彼は笑う」「笑う者」という意味です。
サラは、今、人生で最大の喜びの中にいました。
「笑いをくださいました」とは、直訳すると「笑いを作ってくださいました」です。
主は「サラを顧みられた」のです。もはや諦めて「笑う」しかなかったサラに喜びの「笑い」を作ってくださったのです。サラは「イサク(笑い)」を抱きしめました。
「世の中の常識」に基づくなら、私の望みは「笑う」しかないものです。周りの人も、自分自身も「おまえに何が生み出せるのか」と「笑う」でしょう。
しかし、私は信じます。確かに自分自身を見れば「笑う」しかない状態であったとしても立ち上がって宣言します。
「私のたましいよ、主にとって不可能なことがあるだろうか。不信仰の笑い、あきらめの笑いをもたらす悪しき者よ、主イエスの御名によって命じる。すぐに立ち去れ」と。
主は、私たちを顧みてくださいます。主は「サラのために行った」ように私たちのためにも行ってくださるでしょう。
主は、私たちにも「笑い」を作ってくださいます。それも「喜びの笑い」を作ってくださいます。今は、嘲笑われていたとしても、必ず、主にある「笑い」を抱くことができるのです。
主に不可能なことは一つもありません
私の望みのすべては主にあります
聖霊によって見上げます