ダニエル5:30
その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺された。
金の頭の時代の終わりです
ダニエル書の5章は「バビロンの最後の夜」について記されています。つまり「金の頭」の時代が終わったのです。
その夜、バビロンの宮殿では大宴会が催されていました。
ベルシャツァル王は、新バビロニア帝国の最後の王となりました。
4章まで大いに目立っていたネブカドネツァルは、もういません。ネブカドネツァルの亡き後、彼の息子であるエビル・メロダクが王位につきます。(cf.Ⅱ列王記25:27)
その後、クーデターやら暗殺やら生臭い歴史は割愛しますが、最終的に、ベルシャツァルの父親であるナボニドスが王位につきます。
バビロンの最後の時代は、父ナボニドスと息子ベルシャツァルの共同王政でした。役割分担としては、父親が遠征に行き、息子は内政を司るという感じであったようです。とは言っても、父親は、ほとんど政治的なことには関わっていなかったという説もあるようです。
特に最後の三年間は、父ナボニドスがテマに隠遁していることが多く、ベルシャツァルが父王の摂政として軍事的、政治的実権を握りました。ベルシャツァルは権力を誇り、高慢な心を持った王でした。
福音に生きる ダニエル書講解説教 油井義昭著 一粒社
さて、この高慢と言われる王は、大宴会を催します。権力者が大宴会を開くのは珍しいことではありません。
しばしば、戦争の最中であっても「軍事会議」という名目で宴会が催されたようです。民の指揮を上げることが目的だったのでしょう。
実際、この時もメディア・ペルシャ軍がバビロンの都に近づいていました。ベルシャツァル王も、敵が近くにいることを承知していたでしょう。
それでも大宴会を催したのは、バビロンが難攻不落であることを知らしめるためであったと思います。
ベルシャツァルは、バビロンの都は決して落ちないと信じていたのです。敵は、近くまで来ることができても攻め落とすことは不可能だという絶対的な自信を持っていたのです。
それもそのはずです。当時のバビロンの城壁は、戦車がその上を走れるほどの幅がありました。しかも、複数の戦車が横並びに並んで走れたというのです。
またバビロンの都の側には大河ユーフラテスが流れていました。
史実によると、メディア・ペルシャ軍もユーフラテス河には大いに悩み、有効な攻撃方法を思いつくのに数か月の間、悪戦苦闘を強いられたようです。
巨大な城壁と大河ユーフラテス、難攻不落のバビロンの都、ベルシャツァル王は完全に過信していたのです。
しかし、メディア・ペルシャの計画は密かに実行されていました。彼らは、すでに有効な手段を思いついていたのです。そして、着々と準備を進めていました。
主の裁きの御手は、すぐそこまで迫っていたのです。
王の傲慢が極まった日
「酒の勢いに任せて」ということは、普段ならしないことを気が大きくなってやってしまったということでしょうか。
エズラが主の宮の器について記しています。
主の宮の器は、バビロンのネブカドネツァルによって偶像の宮に安置されていたようです。異教徒のやり方ですが、一応、大切に保管していたということです。
そして、バビロンを滅ぼしたペルシャのキュロス王は、その器を保護し、エルサレムに返還します。
主に対する信仰を持たない王たちが、いと高き神に対して敬意を表したと言ってよいでしょう。
比較して考えると、ベルシャツァルの行為がどれほど不遜で傲慢なことか分かると思います。
彼らは、主の宮の器で酒を飲み、偶像の神々をほめたたえたのです。
これは、明らかに、聖なる神に対する侮辱です。自分たちの偶像の方が上だと言っているのです。おおかた「ペルシャもエルサレムのように我らの支配下に置かれるのだ」などと豪語していたのでしょう。
これは、終わりの日の予型です。
終わりの困難な時代、獣も偽預言者も「大言壮語」します。彼らには「大言壮語」する口があるのです。彼らは、聖なる方を冒涜します。
そして「獣の国」に属する人々も「大言壮語」します。人々は、獣たちに倣って「大言壮語」し、訳も分からず真の神を冒涜するようになるのです。
大宴会に連なった千人の貴族たちが、ベルシャツァルに倣って、主の宮の器で飲み、偶像を賛美したように、多くの人々が支配者たちに倣って獣を礼拝する時が来ます。
主は、ある時点までは、彼らの行いを黙して見ておられるようです。その時まで何も起こらないので、人々は安心して、飲んだり騒いだりしているのです。
けれど、主は、ただ黙って見逃しておられるのではありません。
彼らは「見られている」のです。
それは「突然」やって来ます。
ネブカドネツァルには、1年の猶予が与えられましたが、ベルシャツァルには1日の猶予も与えられませんでした。
王の傲慢が極まったその時、恐ろしい出来事が起こります。
人間の手の指が現れ、何かを書き始めました
「人間の手の指が現れ」て何かを書き始めました。
「指」だけが現れたのでしょうかね。ダニエル書の絵本の挿絵などでは、よく手首までの絵が描かれていますが、実際にはどうだったのでしょう。あまり想像したくありませんが、指だけならば「人差し指」が現れたのだろうな、などと考えたりします。
とにかく、不気味で恐ろしい光景でした。
ベルシャツァル王はひどく驚いて、腰の関節はゆるみ、膝はガタガタと震えたと書いてあります。
「第三の権力」とは、父ナボニドス、自分ベルシャツァルに次ぐ権力者にするという意味です。
しかし、もちろん誰も、その秘めた意味を解き明かすことはできません。
指で書かれた文字は、イエス様のたとえ話に似ているかもしれません。指が書いた文字の意味は、心の鈍っている人々には悟ることができないのです。
宴会場の空気は一変しました。誰もかれもが恐ろしさに震え、どうしたらよいか分からず途方に暮れていたのです。
そこに王母がやって来ました。彼女は大宴会には参加していなかったようです。
この王母とは、ネブカドネツァルの妻であったいう説と、娘であったという説があります。
何冊か、ダニエル書の講解書や注解書を読みましたが確定できませんでした。むしろ、妻でも娘でもない説まであって混乱しております(笑)一般の歴史書も同様ですが、若干、娘説の方が多いような気がします。
ヘロドトスの書いた「歴史」に、ニトクリスという賢い王妃がいたことが記されています。このニトクリスがネブカドネツァル王の妻もしくは娘であったと言われています。
いずれにせよ、この王母が賢い人であったのは間違いありません。彼女は、顔色を変えてはならないとベルシャツァルに言います。そして、ダニエルを召し出すように進言するのです。
「父」とは「父祖」という意味もある言葉です。王母は「あなたの父祖の時代」と言ってネブカドネツァル王の話をしているのでしょう。
王母は、ダニエルのことをよく知っているのです。おそらく、ネブカドネツァル王の「金の頭の夢」も「大きな木の夢」もダニエルが解き明かしたことを知っていたのでしょう。
ネブカドネツァル王が獣のようになったことも知っていたと思います。
さっそく、ダニエルが召し出されました。
ベルシャツァルは、ダニエルのことを知らなかったようです。
名前を聞いたことはあったのかもしれませんが「ユダからの捕虜の一人」という認識しかなく、まったく興味をもっていなかったことが分かります。
ベルシャツァルは「金・銀・青銅・鉄・木・石」にしか興味はなかったのです。目に見える高価なもの、豪華に建てられたもの、戦に使うもの、強そうに見えるものにしか興味をもてないのです。
そして、それらを与えてくれるであろう「金の偶像、銀の偶像、鉄の偶像」を賛美するのです。
もはや猶予はないのです
ベルシャツァルの前に召し出されたダニエルは、もはや青年ではありません。
バビロンに連れて来られてから60年以上の年月が過ぎています。この時、ダニエルは80歳を少し過ぎたぐらいの年齢であったと思われます。
これは余談ですが…
私は、80歳代という年齢に何か特別なものを感じます。主は、多くの聖徒を80歳を過ぎてから用いられるようです。それも素晴らしく用いられます。
モーセは80歳のときにイスラエルを導き出す使命を受けました。カレブは80歳代にして、なお、壮健で町を占領する力がありました。使徒ヨハネが黙示録の幻を与えられたのも高齢になってからでした。
そして、ダニエルもまたしかりです。ダニエルは、この後、ダレイオスの時代にも大臣として用いられます。それにダニエル9章以降の幻は、80歳を過ぎてから与えられたものです。
主にある聖徒には定年などないということです。むしろ、今まで培ってきた、主との関係が花開き実を結ぶ季節であるのかもしれません。
さて、ダニエルは、その昔、ネブカドネツァル王の前に立った時とは全く違う態度で、ベルシャツァルに告げます。
第三の権力など、ダニエルにとって何の価値もありません。私たちは、力に満ち、貫録を漂わせるダニエルを見ます。この人は、60年以上、異国の地で、ただ神とともに歩んできたのです。
ダニエルは言います。
ベルシャツァルは、父祖であるネブカドネツァルに起こった事を知っていました。
それは、バビロンにとって大事件であったでしょうから知らないほうがおかしいのです。
ネブカドネツァル王は、高慢のゆえに「獣の心」に変えられ野の獣と同じように過ごしました。
この出来事は、ネブカドネツァル王の次の世代の王たちへの警告でした。ネブカドネツァル王は「しるし」であったのです。そして、その「しるし」は、いと高き方のあわれみでした。
しかし、ベルシャツァルは、これらのことを知っていながら心を低くしませんでした。彼の心は高ぶり続け、そして、今日の宴会で、その傲慢は極みに達したのです。
ダニエルは、ベルシャツァルには「どうか勧告を快く受け入れてください」とは言いませんでした。
これは「勧告」ではなく「宣告」だからです。
もはや猶予は与えられないのです。ベルシャツァルは悔い改めの機会を逃してしまったのです。
神の指が送られたのは、極みに達した傲慢への宣告であったのです。
その言葉の意味はこうです
ダニエルの解き明かしが始まります。
「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」とは、アラム語であると言われます。
- 「メネ」とは「数」ということ。
- 「テケル」は、量りの単位のこと。
ヘブル語の「シェケル」 - 「ウ」は、接続詞で「そして」のこと。
- 「パルシン」は、「分割」の意味。「ペルシャ」の掛詞(かけことば)であるとも言われる。
ベルシャツァルの治世は終わったのです。主は、彼の目方が足りないと判断されました。
どれほど強くても、どれだけ富んでいても、この世にあって重要な人物とされていても、主とともに歩まない人の人生は「風が吹き飛ばす」ぐらい軽いものなのです。
バビロンは、分割され「メディアとペルシャ」に与えられるのです。
それは、宣告通り、すみやかに行われました。
すべて預言されていたことです
難攻不落と言われたバビロンの城壁は、なぜ落とされたのでしょう。ベルシャツァル王は、大宴会が催された、その夜に殺されたのです。
この都を攻め取る最終戦略は、都の城壁の下を流れていたユーフラテス川の水路を新しい運河に移すことであった。ベルシャツアルの宴会のまさにその夜、川底はせき止められ、包囲軍に最終的な瞬間が訪れようとしていた。侵略軍はこの都の唯一の出口となっていた二つの堅固な扉に通じる川床にこっそりと忍び込んだ。衛兵たちは酔っており、その上、理由はわからないが銅の二枚の扉は解放されていたと、歴史は告げている。
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キュロス王の率いるメディア・ペルシャ軍は、大胆にもユーフラテスの流れを変えたのです。それは、この夜のずっと前から進行している作戦でした。
城壁の堀に流れていた水は干上がりました。キュロスが率いるメディア・ペルシャ軍は、水のない堀を渡って城壁内に進入したのです。
伝承によれば、その夜、不思議なことに、通路を閉ざしているはずの門が開かれたままになっていたそうです。
イザヤは、このことを預言して言っています。
何も知らないベルシャツアル王たちは、宴会場にいきなり兵たちが現れるので驚き慌てふためくのです。
その時の様子を、イザヤは幻で見ています。
イザヤは、バビロンにメディアが攻め上る幻を見たのです。彼らが「食べたり飲んだり」しているのを見て、思わず幻に向かって叫んでしまったのです。
これは、恐ろしい幻でした。イザヤは、この幻を見て戦慄が走ったと言っています。
エレミヤもまた、バビロンの最後を預言しています。(cf.エレミヤ50章~51章)
主はバビロンは沈み、再び浮かび上がれないと言われます。
私たちは、過去の預言が成就したことを心に留めねばなりません。
主は、私たちにこれから起こることを示しておられます。
終わりの時、大バビロンと呼ばれる大きな都は、一瞬にして荒れ果ててしまいます。それは、その昔、ベルシャツアルのバビロンが滅びた時より、もっと世界中を震撼させるでしょう。
主のみことばを心に留めて生きます
ベルシャツアルは、ネブカドネツァル王の身に起こったことを心に留めませんでした。
「知っている」なら「心を低く」しなければならないのです。
私たちは「心を低く」しましょう。
終わりの時、世の人々は、ますます偶像を崇拝するようになります。大バビロンの魅惑的な力は人々を虜にしていきます。
ゆえに警告されているのです。
「これは大患難時代の出来事だ。反キリストも大バビロンも出現していないのだから関係ない」と思う人もいるでしょう。「終末、終末と強調するのはいかがなものか」という意見もあるでしょう。
しかし、預言のみことばを心に留めて生きるのは、どの時代を生きる聖徒にとっても、大切なことであると私は思います。
不法の秘密はすでに働いているのです。確かに「不法の者」は、まだ現れてはいません。しかし、「あらゆる力」「あらゆる欺き」は、今も、私たちを滅ぼすために働いているのです。
私たちは「金の頭」の時代が、いとも簡単に一夜にして終わったことを見ました。また、この先「大バビロン」と呼ばれる大きな都が一瞬で荒れ果てるのだということも知っています。
「知っている」なら「心を低くする」のです。
「心を低くする」とは、言い換えると「傲慢にならない」ということです。
「終わりはまだ来ないだろう」という態度は、ベルシャツアルの傲慢と同じです。それは「突然」くることを忘れないでください。
「心を低くする」生き方とは、自分の考えに従って行きないということです。自分の経験、自分の知識を判断の基準にしないということです。
ベルシャツアルは「あの城壁とユーフラテスを越えることはできないだろう」と思っていました。それは、彼の知識と経験を基準にした判断でした。しかし、主の「預言のみことば」は、彼がどのように考えたとしても「成就」するのです。
私たちが「終わりのしるしは、まだ見えない。いくらなんでも今日は大丈夫だろう」と思う、まさに今、「不法の秘密」は働いているのです。
みことばに聞きましょう。主のみことばを心に留めましょう。確かに、預言書は、少々恐ろしいかもしれません。
しかし、どのようなみことばであっても「それは甘い」ということも、また事実であることを覚えてください。
主は「その巻物を取って食べよ」とエゼキエルに言われたのです。エゼキエルが」食べたのは「嘆きと、うめきと、悲痛」が書かれた巻物でした。
どうか、あなたが「巻物」を「甘い」と感じることができますように。
いつの時代も幸いなのは「主のおしえを喜びとする人」です。
どんな時も「主のおしえを喜びとする人」「主のみことばを心に留める人」が幸いなのです。
そのような人は「目方が足りない」という評価を受けることはありません。「風が吹き飛ばす籾殻」になることはありません。
「金の頭」は、重そうに見えますが「風に吹き飛ばされる籾殻」のようになりました。
ネブカドネッアル王が見た夢の通り「金の頭」の時代は終わり、「銀の胸と両腕」の時代がやって来ました。
ダニエルもまた引き続き、ダレイオスに仕えることとなります。
その話は、また、次の章で学びましょう。
祝福を祈ります。