雅歌4:9
あなたは私の心を奪った。私の妹、私の花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りとただひとつの宝石で。
ただ一度のまなざしでと言われます
イザヤの時代のイスラエルの民は「形式的な礼拝」をささげていました。
彼らには「豊かさ」を偶像とする心がありました。「豊か」にしてくれるならば、外国の神々でも占い師でも、悪巧みでも、何でも歓迎しました。
彼らは「二心」を持っていることに気がついていません。
そのような状態でも「例祭」を守れば、主は喜ばれるだろうと考えていたのです。
しかし、主は言われます。
「それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた」と。
心の伴わない礼拝は、主を疲れさせるだけなのです。
主を「慕う真心」のない礼拝は、主を喜ばせるどころか「重荷」となるのです。
主は「礼拝の形」を求めてはおられません。「霊とまこと」の交わりを求めておられます。
主が求めておられるのは「礼拝そのもの」ではなく「真の礼拝者」です。
誤解を恐れずに言うならば、主が求めておられるのは「あなたの賛美」ではなく「あなた自身」であるということです。
つまり、そこには「主を慕う真心」が必要なのです。
ある父親の証です。
僕が仕事から帰ってきたら、幼い息子たちが僕を玄関で出迎えてくれる。そこには「歌」もないし「拍手」もない。ただ、僕の帰りを待ち望んでいた「キラキラした目」があるだけなんだ。僕の顔を見て嬉しそうに輝く目と、抱き上げてくれと差し出す手…。それが僕を満足させてくれる。それで充分なのさ。
私たちの礼拝には「歌」があります。賛美はとても素晴らしいものです。
また、主を敬う「敬虔な行い」もあるでしょう。
しかし、あなたの「目」はどうでしょう。
そこに、主の御顔を慕う「キラキラした目」はあるでしょうか。
主は、私たちを愛しておられます。
子どもとして受け入れてくださいます。
また、同時に「花嫁」としても愛してくださいます。
主が、私たちを愛してくださることは、本当に驚くばかりです。私たちが「主の心を奪う」ほど魅力的であるなんて、信じられないことですね。
しかし、それは「真実」です。
主は、何にもまして「あなたのまなざし」を求めておられるのです。
花婿が、花嫁の「まなざし」に心を奪われたように、主は、あなたの「まなざし」に心を向けてくださいます。
主は、あなたを愛しておられます。
主を喜ばせるために「着飾る」必要はありません。
必要なのは、主を慕う「まなざし」と「真心」です。あなたは、主の「真珠」です。あなたの「心」は、主に捧げる「宝石」です。
私たちは、主を真心をもって礼拝しましょう。主を心から慕い求めましょう。ただ主だけを見つめて生きましょう。
花嫁には「まなざし」と「ただひとつの宝石」があれば十分なのです。
そして、神の子には「キラキラした目」と「差し出す両手」があればよいのです。
私は真心をもって礼拝します
主よ、あなたの愛をもっと知ることができますように
私は、主を見上げ続けます