Ⅰヨハネ2:15
あなたがたは世をも世にあるものをも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているのなら、その人のうちに御父の愛はありません。
問題は「世」とは何かということです
「世をも世にあるものをも、愛してはいけません」と使徒ヨハネは言います。
「世」とは何でしょう。私たちは何を愛してはならないのでしょう。
ジョン・ウェスレーはこのように言いました。
「何ものであれ、キリストに対する私の愛を冷やしてしまうものが世である」
私が、よく思い出す本の一節を引用します。
私は今でも、大学時代、あるすぐれたキリストのしもべとかわした会話を思い出す。ある土曜日の午後、私は、フットボールの試合を見に行かないかと誘った。すると彼は、「ありがとう。だけど君だけで言ってくれないか」と答え、それから、その理由を説明してくれた。彼はカナダにいたころ、スポーツが熱狂的に好きであった。ところがある日、主が、彼に、土曜日にフットボールをし、日曜日に説教をするというのは(彼の場合)一貫性がないではないか、ということを示されたのである。私は彼の信念を尊重した。そして彼は、そのことに関して、私の信念まで変えようとはしなかったのである。
人生の訓練 V・レイモンド・エドマン著 いのちのことば社
「キリストに対する愛を冷やすもの」は、その人によって違うでしょう。
「土曜日にスポーツ」をすることは「罪」ではありません。あなたが「良い」と思うなら、土曜日にスポーツ観戦をしても何の問題もないのです。
ただ「彼」にとって、それは「キリストへの愛を冷やすもの」であったということです。
「彼」は、イエス様に示されたことに「応答」しただけです。そして、それを人に押し付けることはしませんでした。
「僕がやめたのだから、君もやめるべきだ」とは言わなかったのです。
大切なことは「キリストへの忠実」です。そして、それは「個人的なもの」であることを覚えてください。
あなたにとって「キリストへの愛を冷やすもの」は何でしょう?
何であったとしても「それ」が、あなたをイエス様から離してしまうのならば、あなたは「それ」を退けなければならないでしょう。
「そこまでしなくても」と、もし誰かに言われたら「ニッコリ」笑って言えばいいのです。
「あなたに押し付けるつもりはありませんよ。これは、主と私の間のことです」
「罪だからしない」「罪ではないから大丈夫」そのような判断基準で自分の行動を決めるのはやめましょう。
私たちは、主イエスとの「個人的な関係」をますます求めましょう。主に近づくこと、主を愛することを求めましょう。
主は「あなたの名」を呼ばれる「あなたの羊飼い」です。
私は「世」を愛しません
心を尽くして、主を愛します
主の御旨に聞き従います