Ⅰサムエル16:7
主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
ダビデは愛された者です
さて、これはイエス様の系図に記された「ダビデ」に関する一節です。イエス様はダビデの子孫として生まれてくださいました。
注目したいことは「ダビデ王」と記されていることです。この系図の中でダビデだけが「王」と呼ばれているのです。ソロモンの後ろに「王」の文字はありませんね。
ダビデは特別です。ダビデは偉大な王ですし、理想の王です。イスラエルの誇りです。
しかし、「王」と記された同じ節に、ダビデにとって最も不名誉なことが同時に記されています。
偉大なダビデ王は「ウリヤの妻によって」ソロモンを生んだと系図の中に加えられています。「ウリヤの妻」との一言で、あとは推して知るべしということです。
「ダビデ王」は「完璧な人」ではありませんでした。しかし、イエス様は「ダビデのような一人の王」と呼ばれることを選んでくださったのです。
ダビデには、良い面も悪い面もあります。ダビデが「行い」によって選ばれたのではないことは聖書を読めば分かります。
サムエルは、ダビデの兄エリアブを見たとき、この人こそ「油注がれる者だ」と思いました。しかし、主はエリアブを選ばれてはいませんでした。
主は「人が見るようには見ない」と言われました。主は「うわべではなく心を見る」のです。
そして、「心を見る」と言われた方がお選びになったのが「ダビデ」なのです。
主は、ダビデの心を見られました。
ダビデとは「愛されし者」という意味の名前です。そして、ダビデという人は、その名前のとおり「主に愛された人」でした。
主はダビデを愛されたのです。そして、ダビデもまた、主を愛しました。
マタイ1章にある「イエス・キリストの系図」は、ダビデを中心として構成されていると言っても過言ではありません。
「偉大な王」としてのダビデ、「失敗した罪人」としてのダビデ、イエス様の系図には、そのようなダビデの姿が記録されています。
しかし、それはどちらも「うわべ」のダビデです。
主は「心を見られ」ます。
主の御目には、ダビデは「偉大な王」でも「失敗した罪人」でもありません。主の御目には、ダビデは「愛する者」として映っているのです。
主は、あなたの「うわべ」を気にされません。
あなたが「成功」しているかを気にされません。あなたが過去に「失敗」したことは忘れてくださいます。
主は、あなたを「愛する者」として見てくださいます。
そして、あなたがご自身を「愛する者」であるかを気にされます。
愛に行いで応えてはなりません。
愛には愛で返すのです。心には心で応答するのです。
主の「愛」を受け取ってください。そして、主に心からの「愛」をささげましょう。
私は主を愛します
主が先に私を愛してくださったからです