【マタイ6:9a】
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
天にいます私たちの父よ。
イエス様は祈りを教えてくださいました
イエス様は、「同じ言葉をただ繰り返してはいけません」と言われました。
意味のない呪文のような言葉をただ繰り返すのは祈りではありません。また願い事のみを何度も何度も繰り返し唱えることも祈りではありません。
祈りは、ただ単に願い事を聞いてもらうための手段ではないのです。
イエス様は言われます。「あなたがたの父は、あなたがたの求める前から必要なものをを知っておられる」と。
つまり、私たちが求めるものや必要な物は、すべて祈る前からご存知だと言われるのです。
ですから、ただ願いを叶えてもらうため、また自分の思いを遂げるための祈りはやめなさいと言われるのです。
イエス様は、私たちが祈るべきことを教えてくださいました。今週からしばらく「主の祈り」を一緒に考えていきたいと思います。
1時間でも祈っていることができないのですか?
もう30年前の本になります。こう書くと、びっくりしますね。私は、もう30年、この話を繰り返していることになります。
「1時間でも祈っていることができないのですか?」という本を読んで、私は「主の祈り」に絶大な興味を抱きました。それ以来、たびたび「主の祈り」について語っていますが、どうも浸透していないようです(笑)
私の興味を引いた記述は2箇所です。
1つ目の個所はこれです。
私はチョー博士が早口に私が聖霊から学んだのと同じ原則を説明するのを聞いて驚きました。私は興奮しながら、心の中の何かが跳びはねて、チョー博士の話によって確信が与えられるのを感じました。彼の「祈りのトラック」は主の祈りで、そのトラックを回る一周一周は、主イエスが弟子たちに与えられた六つの時代を超えたトピックであったのです。
1時間でも祈っていることができないのですか? ラリー・リー著 マルコーシュ・パブリケーション
「私」というのは著者のラリー師です。チョー師が自分と同じ「主の祈り」に従って祈っていることを知って喜んでいるという場面です。
私は、チョー・ヨンギ牧師が「主の祈り」をベースにして、毎日祈っていたということに興味をひかれました。私も、「主の祈り」を祈れば、あのように聖霊に満たされた人になれるかもしれないと思ったのです。
2つ目の個所はこれです。
「みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒1:14)」ヤングは、ギリシャ語では「祈りに」ではなく、むしろこの節は、実際には「彼らはみな心を合わせ『あの祈り』に専心していた」と訳せるというのです。古い文書ではしばしば主の祈りのことを「あの祈り」と呼んでいたことをヤングは、指摘しています。
1時間でも祈っていることができないのですか? ラリー・リー著 マルコーシュ・パブリケーション
この箇所を読んで、私の心は完全につかまれました。「主の祈り」こそ「ペンテコステの鍵」ではないかと考えるようになりました。
あれ以来、何度も試みては失敗し、また再びチャレンジするということを繰り返し、やっと、なんとか祈れるようになってきたのではと思います。
と言っても、この本のように「やり方」を極めたわけではありません。私には「やり方」というものは、どうも向いていないようです。
私も最初は「主の祈り」をリストのようにして、一つ一つを「主題」にして祈っていたのです。そのように、メッセージもしていました。
けれど、あまりうまく祈れなかったのです。つまり、続けることが難しかったのです。チョー師の言っている「トラックを周る」という意味は分かるけれど「何周もする」のは無理だったのです。だって、飽きますよね。
当時、私は「祈り」を理解していませんでした。それは、今も完全に理解してはいないだろうけれど、あの頃よりはマシだと思います。
私は、主の祈りを「リスト」「祈るべき項目」として見るのではなく、「御思い」であり「私たちの状態」であると捉えてはどうかと考えました。そうすると、これが、私にとってはかなり上手くいったのです。
「主の祈り」に込められた意味を自分なりに理解することが「鍵」であると私は思います。
「主の祈り」に関する本は山のように出版されています。そのような本を読んで理解を深めることも素晴らしいとは思います。けれど、イエス様があなたに知って欲しいと思われることを、聖霊の導きによって、あなた自身が「知る」ことが何より大切です。
そうすれば、それは外側にあって祈らなければならない「リスト」ではなくて、心の板に書き記された「いのちのことば」になります。
今回は「父」について話します。しかし、それはもちろん一部分です。すべてではありません。
「主の祈り」を深く味わい、自分の心に書き記したいと思う「きっかけ」になれば幸いです。
「父よ」と祈りましょう
イエス様は、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から必要を知っておられる」と言われました。
私たちは「父」に祈るのです。すべてをご存じの方に祈るのです。
「父」がどのような方かを知ることは「呼びかける」うえで最も大切なことです。私たちの「父」はどのような方でしょう。私たちはどのような方に「父」と呼びかけるのでしょう。
私たちは、願い事があっても、なくても祈ります。楽しい時も、嬉しいことがあった日も、祈ります。
つらい時や悲しい時には、特に祈ります。私たちは、どんな時にも祈るのです。そして、祈る時には「父よ」と呼びかけるのです。
イザヤは「父」に祈りました
「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です」とイザヤは言いました。主を「父です」と告白しています。それはこの方が陶器師であるからです。私たちはみな、この方の御手のわざだからです。
ここでの「父」という呼びかけは、創造主である方、すべての源である方に対する呼びかけです。
私たちを存在さしめる原因である方、そして、私たちが存在することを望まれた方に対しての呼びかけです。
「父」が私たちを望まれました
神は「みこころの良しとするところにしたがって」私たちをイエス様によって「子」としてくださいました。つまり、私たちをご自分の「子」にしたいと望まれたということです。
誰も御父が望まれない限り「子」とされることはできないのです。
御父は、私たちを「子」としてくださいました。それも「愛」をもってそう定めてくださったのです。
御父の「愛」は、母親がその胎の子を思う以上の「愛」です。私はいつも御父に覚えられています。私の名前は、主の手のひらに刻まれているのです。主は、ご自身に私を刻んでくださっているのです。
この真理を心に留めることはとても重要です。なぜなら、「自分の義」によって「御父に近づく」という過ちを犯さずにすむからです。
私たちは、この真理を忘れてしまうので、自分の状態に左右されて祈れなくなってししまうのです。
罪を犯せば、確かに、主の御前に出ることをためらいがちになるでしょう。ある人は、罪悪感によって御前から逃げ出してしまうでしょう。しかし、それは逆走しているのです。
私たちが本当に罪悪感から逃げたいと思うなら、真っすぐに御父のもとへ走らなければなりません。赦しと癒しはそこにしかないのですから。
心底、もうダメだと思うなら、走って行く場所はただ一つしかないことが切実にわかるはずです。
イザヤは「しかし」と言いました。
もう一度、イザヤの祈りを読みましょう。
イザヤが「あなたは私たちの父です」と言ったとき、彼の周囲には希望はありませんでした。絶望と言っていい状態でした。
神の民はみな、汚れていました。そして、自分たちの罪の中で吹き飛ばされそうになっているのです。誰もかれもが罪を犯しているのです。そして、滅亡がそこに迫ってきていました。
そのような中にあっても、誰一人として御名を呼ぶ者いません。主にすがる者もいないのです。
「弱められました」とは、原意は「溶ける」です。溶けたらなくなります。つまり滅びてしまうということです。神の民は、もう溶けてなくなる寸前なのです。
そのような時にイザヤは言うのです。
「しかし」と。
そして、その「しかし」の後に続くのが「主よ、あなたは私たちの父です」という告白です。
主が「父」であることがイザヤにとっての最後の望みです。
この方は、すべての原因であり、すべての源です。この方こそ私たちの陶器師だからです。
イザヤは、主のあわれみにすがろうとしているのです。
「どうか、主よ、ご自分がイスラエルを造られたことを思い出してください。慈しみ育てられたことを忘れないでください。そして、どうかあわれみを」と言っているのです。
イザヤは、主のあわれみが私たちが思う以上に深いということを知っているからです。
私へのたぎる思いを抑えておられるのですか
「私へのたぎる思いとあわれみを抑えておられるのですか」とイザヤは言ったのです。
イザヤは、御父の本当の心を知っているのです。民に怒りを注がれていても、その本当の心の底には「あわれみ」があふれていることを知っていたのです。
イザヤは父なる方が、熱い心を持っておられるのを知っているのです。
主は、エレミヤを通して、そのお心を明かしておられます。
主は、心の底から民のために「わななき、あわれまずにはいられない」方なのです。
ホセアを通して、主はご自分の心が「沸き返り、あわれみで胸が熱くなっている」と言われました。
「私へのたぎる思いを」とイザヤが言うのは、主のうちで沸き返って、今にも沸騰しそうなあわれみの心のことです。
イザヤは主の真実の御思いを知る人でした。イスラエルの聖なる方が、どれほどあわれみ深い方かを知っていたのです。
「すべてのとりなし手が預言者ではないけれど、すべての預言者はとりなし手である」と言われます。預言者イザヤも「とりなし手」でした。彼は、主の御心に添うことのできる人であったのです。
イザヤには、「御父」があわれまずにはにはおられない方であると分かっていました。
ゆえに、周囲の状況が、もはや絶望しかないというときに「しかし」と奮い立つことができたのです。
そして「あなたは、私たちの父です」と告白することができたのです。
私たちも「父よ」と呼びかけます
ある牧師先生の証です。
友人のとりなし手が預言のことばを伝えてくれたそうです。教会に対して何か新しいことを伝えてくれるのだと期待に満ちて耳を傾けました。しかし、その友人はたった一言こう告げました。
「主は『あなたに会いたいと伝えてほしい』と言われました。」
働きが始まったころは時間があったのです。夜明けから正午まで、礼拝し御言葉を学びました。しかし、教会が大きくなると忙しくて午前中ずっと自分のために時間を使うなどということはできなくなったのです。
もちろん、その牧師はすぐに決断しました。主の招きに応じないことなどできるでしょうか。教会員が減る覚悟をしました。しかし、午前中、自分たちの牧師が主とずっと交わっているからと言って怒るような教会員は一人もいなかったそうです。
御父が求めておられることは変わりません。
御父はあなたにも言われるでしょう。
「わたしは、あなたに会いたい」と。
主は「神のために何かをする人」よりも「神とともにいる人」を望んでおられるのです。
「神のため」であったとしても「奉仕」に目を向けて欲しいとは思われないのです。主は、常にご自身を「仰いで」欲しいと願われます。
私たちは、祈ります。
どんな状況であっても、どんな気分であっても祈ります。
御父の元へ走っていきます。
なぜなら、あわれみで沸き立つ心を持った方が待っておられるからです。
失望したとき、傷ついたとき、罪を犯してしまったときにも祈ります。
「あわれみで沸き立って」おられる方にこそ希望があります。すべての造り主、すべての原因である方に解決できないことなど一つもありません。この方こそ「希望」そのものではないですか。
イエス様も言われました。「父は求める前から、必要をすべて知っておられる」と。
私たちは、毎日祈ります。朝毎に「父よ」と呼びかけます。
主はあなたに「会いたい」と願っておられるのです。
イエス様は「父よ」と呼びかけなさいと言われました。「父」と呼べるのは「子」であるからです。私たちは神の家族なのです。毎日、顔を合わせ、毎朝「ことば」を交わすのは自然なことです。
「天にいます私たちの父よ」と呼びかけるとき、どうぞ覚えてください。
御父はあなたを産み出された方であることを。
あなたが存在することを望まれた方であることを。
そして、この方の心があわれみで沸き立っていることを忘れないでください。
私たちは「天にいます私たちの父よ」と呼ぶとき、このことを思いめぐらせるのです。御父の「あわれみ」に感謝をささげるのです。
「御父」は、あなたが呼びかけることを待っておられます。
あなたが「天にいます私たちの父よ」と祈り始めるなら、豊かな恵み、あわれみが注がれるでしょう。それは、朝毎に新しいので私たちは飽きることがありません。
あわれみ深い御父を思って祈るなら、おそらく、あなたは別の悩みを抱えることになるかもしれません。
「主の祈り」を最後まで祈りたいのに、「御父」のあわれみが大きすぎて先に進めないという悩みです。15分なんかあっと言う間でしょう。1時間祈ることもできるかもしれません。
私は、「主の祈り」は一日かけて完成させればいいと思っています。「天にいます私たちの父よ」という呼びかけを味わい楽しみながら、泣く泣く職場にいきましょう。
そして、職場で、または家事をしながら、その先を祈ればいいのです。そうすれば、御国があなたの職場や家庭に現わされるであろうと確信します。
もちろん、夜明けとともに起きて、主の御前に出ることができれば、それも素晴らしく幸いでしょう。
私もあなたのために祈っています。
祝福がありますように。