【コロサイ3:12~13】
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかが他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
私の性格が直るように祈ってください
私たちは、神に選ばれた者です。聖なる者とされました。そして、神に愛されている者です。
嬉しいですね。私たちはみな、神様にあって、そのような者なのです。
しかし、そこで終わってはなりません。
私たちは「選ばれた、聖なる、愛されている者」であると同時に「キリストのように赦す者」としても召されているのです。
ハ・ヨンジョ師の本から少し長いですが引用します。
以前、中国で宣教師たちに会ったことがあります。
一人ずつ証をしました。
私が仕える教会で宣教師として派遣された七十歳を過ぎた長老の順番になりました。
その方は、たくさんの働きをしているので面白い話をたくさん聞けると期待し、耳を傾けました。
ところが、その方はこのようなことを言いました。
「先生、私は今年七十歳を過ぎました。宣教師として神の働きをしようとここまで来たのに、この年になるまで私の悪い性格を直すことができません。怒ることがしょっちゅうです。」
その方はそう言いながら、泣き崩れました。
「最初は、働きが大事だと思いました。しかし、自分の性格を制御することもできず、この歳になるまで、よく怒り、大声で叫ぶ私がどうして宣教師と言えるでようか。」
私たちは皆黙ってしまいました。
皆、恥ずかしくなりました。大きなショックを受けたのです。
そのような年齢で、そのような告白をすることは大変難しいことです。
けれども、その方はそう告白し、その場にいる人たちにこう願ったのです。
「これが私の実際的な問題です。性格が直るようにお祈りください。」
荒野の祝福 ハ・ヨンジョ著 ツラノ書院
私も自分の「成すべきこと」に集中しすぎて最も大切なことを忘れてしまいます。
すべてを捨てて献身しているつもりでも「愛」がないなら、何の役にも立ちません。
大切なことは、私は「日々、キリストの似姿」と変えられているのかということです。
主が赦してくださったように赦せるだろうかと自分に問うことです。
神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者だからこそ、私は「キリストの似姿」とされることを慕い求めるのです。
大人になっているのに「性格を直してください」と願うことは恥ずかしいけれど、やはり、イエス様のようになりたいのです。
どうぞ、「キリストの似姿」となれるよう、私のためにお祈りください。
そして、愛する兄姉、
ご一緒に「キリストの似姿」を慕い求めていきましょう。
私たちは「御子のかたち」と同じ姿に定められています。
私は主を愛します。
イエス様の似姿を慕い求めます。
御霊により「聖霊の実」を結ばせてください。