出エジプト33:14
主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「どうすれば」の答えは「臨在」です
主は、モーセに「大きな使命」を与えられました。モーセに「イスラエルを約束の地に連れ」て行けと言われたのです。
モーセは「忠実な人」でした。イエス様と対比されるほど「忠実な人」であったと記されています。
忠実であったからこそ、モーセには気苦労も多かったことでしょう。
イスラエルは「うなじを固くする民」と呼ばれています。モーセも彼らを導いていくことの難しさを痛感していたでしょう。
モーセは「あなたの道を教えてください」と嘆願しています。平たく言えば「どうすればよいのか教えてください」ということです。
ああ、主よ、どうすればよいのか分からないのです。
あなたの御心を行いたいのです。
私たちが「あなたの民」であることを忘れないでください。
私も、何度このように祈ったか分かりません。主の御心を行いたいと切に望みます。しかし、どうすればよいのか分からないのです。どこに行けばよいのか、何をすればよいのか、まったく分かりません。
この道が「正しい」のだという確信が欲しいのです。「これが道だ、これに歩め」と言うはっきりした「主のことば」が聞きたいのです。
金の子牛を造るなどという失態を犯した民を、自分一人で導いていくなんて「とてもできない」とモーセでも思ったのでしょう。主の与えて下さった使命だから「忠実」に遂行したいと願っているけれど「どうすればよいのか分からない」のです。
主は、モーセに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と言われました。
これが「あなたの道を教えてください」と求めたモーセへの答えなのです。
そしてまた「主の道を教えてください」と切に求めるすべての人への答えです。
主はこれまでも「あなたと共にいる」と約束して下さり、約束の通り「モーセとともに」歩まれました。
しかし、モーセは「その先」があることを知りました。「主の臨在」は、モーセを休ませるのです。モーセは「一人」ではないのです。
「休む」とは「活動を止める」ことです。主の臨在は「安息」をもたらします。主の「臨在」のうちで「活動する」ことはできません。
必要なことは「どうすればよいか」と求めることではなく、「主の臨在」を仰ぐことです。
「主の臨在」を仰ぐならば「どうすれば」は問題ではなくなります。ジタバタすることはなくなります。「主の臨在」を仰ぐならば、その御前に静まることしかできません。
「主の臨在」のうちにいるならば「事」はすでに解決しているとを知るでしょう。主は、私を「休ませ」てくださるのです。
主が「あなたを休ませる」と言われるのですから、私たちは「休み」ましょう。すべてを委ねて「休みつつ」ともに歩けばよいのです。生きるのは、常に「私ではなくキリスト」です。
どこにいても、何をしていても、どんな困難な状況であろうとも「わたしの臨在がともに行く」と主は言われます。
「主の臨在」とともに行きましょう。
主が「わたしの臨在がともに行く」と言われるのです。
「主の臨在」から離れないこと、それだけを切に求めて歩みましょう。
主よ、あなたの臨在を求めます
「一分一秒、」あなたの臨在から離れることがありませんように
「主の臨在」を感謝します