詩篇55:22
あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
私は自分を支えることはできません
「あなたの重荷」とは、直訳すると「あなたに与えられたもの」です。
別訳では「あなたの将来」です。
つまり、私たちは「自分に与えられた将来」をすべて、主にゆだねることができるのです。
いえ、むしろ「ゆだねよ」と言われているのですから「ゆだねるべき」なのです。
私たちが「ゆだねる」なら、主は私たちを「支えて」くださいます。
「ゆだねる」とは、言い換えるならば「手離す」ということです。または「自分で支えない」ことと言えるかもしれません。
私たちは「将来」を手離しましょう。それは「自分で支える」べきものではないのです。
それは「一時間後の将来」でも「一カ月後の将来」でも「十年後の将来」でも同じです。
それはまた「自分自身の将来」に対してだけではなく「周囲の人の将来」に対してもです。
私たちは「自分の重荷」をゆだねると決断することができます。また、誰かの「決断」を助けることができるかもしれません。
私たちは「破れを繕い修復する」ことに用いられるかもしれません。
しかし、だれも決して「支え」となることはできないのです。
「あなたの重荷を主にゆだねよ」とダビデは言います。これはダビデの「マスキール」つまり「教訓」です。
ダビデは、苦難の人生の中で「ゆだねる」ことを学んだのです。
あなたの「重荷」は何でしょう。
「もうダメだ」「もう無理だ」「背負うのに疲れた」と感じているでしょうか。
「無理なのは理解している。でも、私がやらねば誰がやる」と思っているでしょうか。そんなアニメの主人公のような「責任感」は捨てなさい。
「あなた」ができないなら「主が」なさいます。
どうか「主イエスのもと」に行くことを覚えてください。
なぜ、あてもなく彷徨う人のように「自分の重荷」を背負って歩き回っているのでしょう。
時には「自分の重荷」だけではなく「他の人の重荷」まで背負って…
私たちは「イエス様のもとに行く」ことを学ばなければなりません。つまり「重荷のゆだね方」「将来の手離し方」を学ぶ必要があるのです。
「あなたの重荷」「あなたの将来」を主にゆだねなさい。
私たちは決して「主の代わり」にはなれません。私たちは「支え」ではないのです。
「あなたの重荷」「あなたの将来」を主にゆだねなさい。
主は決して、あなたが「揺るがされるようにはなさらない」と約束しておられます。
主よ、私の重荷をゆだねます
主よ、あなたこそ支えです。
私は、決して揺るがされることはありません。