哀歌1:9a
彼女の汚れは裾に付いている。彼女は自分の末路を考えない。それで、驚くほど落ちぶれて、誰も彼女を慰めない。
落ちぶれたのは「末路」を考えないからです
エルサレムが「落ちぶれた」のは、彼女が自分の「末路」を考えなかったからだとエレミヤは言います。
口語訳では「その終わりを思わなかった」と訳されています。
エルサレムは、自分の「今」しか考えなかったのです。「今」助けが欲しいので、他国と同盟を結んだのです。「今」快楽を味わいたいので、他国の偶像を拝んで淫らな儀式を取り入れたのです。
「今」の安穏な暮らしがずっと続くと思っていたのです。
預言者が「何かしら叫んでいるな」と思いつつ、その戒めに耳を貸そうとはしませんでした。
シオンの娘は、自分の「末路」を真剣に考えることを怠ったのです。
「末路」「その終わり」を考えない人は「落ちぶれる」のです。
「末路」を考えず「今」だけを追い求めるならば、私たちは「驚くほど落ちぶれる」でしょう。
「その終わり」に目を向けずに歩むなら、私たちは「大事な一日」を無駄に過ごすことでしょう。
「末路」を考えるということは「今」がその先につながっているのだと認識することです。
「その終わり」を意識して歩む人は、自分勝手な道を行くことはしません。
そのような人は、主が与えてくださった「使命」を全うしたいと望みつつ生きます。
神の人モーセは「自分の日を数えることを教えてください」と祈りました。前の新改訳では「自分の日を正しく知ることを」と訳されています。
私たちには必ず「終わり」が来ます。長く生きても120年でしょう。
この地での「生」は必ず尽きます。その「終わり」をどのように迎えるのかを考える人は幸いです。
私たちは「その終わり」をどのように迎えるでしょう。
愛するイエス様は、私に「よくやった忠実なしもべよ」と言ってくださるでしょうか。
私たちは必ずこの世を去ります。
私たちはもしかすると「死」を見ず「携挙」されるかもしれません。
私たちの「その終わり」は、想像しているよりも「早い」かもしれませんね。
ですから、今「裾の汚れを払い落とし」真っすぐに「末路」を見ましょう。
勇敢に戦い抜きましょう。この世のささやく「今が大事」「この瞬間がすべて」という惑わしに心を揺さぶられてはなりません。最も大事なことは「末路」です。「その終わり」に何が待っているのかなのです。
「義の栄冠」は、あなたのためにも用意されています。
私たちは「その終わり」に義の栄冠を授けられます。
「その終わり」に向かって、信仰をもって歩み続けましょう。
私は「末路」を考えます
主が用意して下さる義の栄冠を思います
この地での日々を、主の栄光のために生かしてください