【マタイ6:10a】
御国が来ますように。
「一度目」と「二度目」の間に生かされています
イエス様は「御国が来ますように」と祈りなさいと言われました。つまり「来たれ、あなたの国」と宣言せよということです。
それれでは「御国が来ますように」「来たれ、あなたの国」とはどういう意味なのでしょう。
イエス様は言われます。
「悪霊どもを追い出しているのなら、神の国は来ている」と。
そして、イエス様は、地上におられる間、多くの人々から汚れた霊を追い出されました。
そうであるならば「神の国はすでに来ている」ということになります。
主は「わたしはすぐに来る」と言われました。そして、私たちには「来てください」と言いなさいと言われます。
であるならば、「神の国」はまだ成就していないということです。
この大いなる矛盾と思えるような、頭で考えると混乱してしまうような状態に「私たちは生かされている」のです。
私たちは、この「一度目」と「二度目」の間に生かされているのです。
御国はすでに来ています
まず、「すでに」来ている御国について考えてみます。
イエス様は「悪霊を追い出す」ことと「神の国が来ている」ことを同じこととして語られました。
つまり、「悪霊どもが追い出されていること」が「御国が来ている証拠」であるということです。
イエス様は、12弟子を遣わす前に「悪霊を制する権威」をお与えになりました。彼らは行く先々で「御国の福音」を宣べ伝えます。
「神の国が来た」という宣教をするために「悪霊を追い出す」という権威を授けられたのです。それは「悪霊を追い出すこと」が「神の国の福音」の証拠だからです。
なぜなら、神の国の支配が及ぶ場所に、悪しき霊が存在することはできないからです。
サタンは「暗闇の支配者」です。「闇」がなければ、そこに権利を主張することはできません。光そのものである「神の国」で悪霊が活動することなどできません。そこに「闇」はなくなるからです。
私たちは「光の子」です。闇から光に、サタンの支配から神に立ち返った者です。私たちは、神の所有とされた民です。神の御国に住む者です。
神は光の中におられます。私たちは「光の中を歩む」べきです。そうして私たちは、常に「神と交わりを持ち」ます。
私たちが罪を犯したとしても「光の中を歩んで」いるなら、つまり、神の御前に隠さず告白するなら、御子イエスの血がすべての不義からきよめてくださいます。
闇はそこには存在しません。そうであれば、サタンは、足がかりを得ることはできません。「光の中」でサタンが活動できないのであれば、「光の中」とは「御国」であるとも言えます。
私たちは王国です
神の国は「あなたがたのただ中にある」とイエス様は言われました。
私たちのうちに「神の国」が来ているのだと信じることができますか?
聖書は、驚くべきことを言っています。
「私たちを王国とし」と書いてあります。「御国」と同じ語が使われていますから、「私たちを御国とし」とも訳せるわけです。
主は、私たちを「ご自分の驚くべき光の中に召して」くださいました。「光の中に召された」者は、「王国・王・祭司」とされるのです。
私たちは「まことの王」である「神のものとされた民」です。そして、私たちのうちには「キリストの御霊」と呼ばれる方が住まわれます。
「まことの王」が来てくださいました。私たちの心は、この方のものでしょうか。あなたは「王」として主なる神をお迎えしていますか?
栄光の王の御座は、私の心に設けられているでしょうか。
私たちは、万軍の主を「王」としてお迎えしなければばりません。ただ主だけが治められるよう、私たちのすべてを明け渡します。私たちの心の戸を全開にして「王なる主」をお迎えしましょう。
そうすれば、私の中に「御国」が来ます。私たちは「御国」とともに動き回るのです。
私たちが救われたのは「暗闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、告げ知らせるため」です。つまり、「御国の福音」を宣べ伝えるためです。
大胆に宣言します。来たれ、神の国!
イエス様は言われました。
信じる者に、まず最初に伴うしるしは「イエスの名によって悪霊を追い出す」ことなのです。
私たちちが神に従い、主イエスの御名により立ち向かうなら悪魔は逃げ去ります。そのようにして、悪霊に対して勝利しているのなら、そこに神の国は来ているということです。
「御国が来ますように」と祈る人はみな、この権威を用いるべきです。「来たれ、あなたの国」と宣言する人は、大胆に立ち向かうべきです。
「御国が来ますように」という祈りは、「私は神のものです」「神の支配が現わされますように」と言うことです。「来たれ、あなたの国」とは、「主の敵は消え去れ」「輝け、神の栄光」と言うことです。「栄光輝く御国」に、「神の敵」が堂々と居座っていることなど考えられますか?
「御国の福音」と「悪霊を追い出すこと」はセットです。「御国の福音」は宣べ伝えたいけど「悪霊は追い出したくない」というのは理屈が通りません。
私たちは、自分が遣わされた場所で「来たれ。神の国」と宣言しましょう。大胆に宣言しても大丈夫です。なぜなら、あなたのただ中に「御国」は来ているのですから。
私たちは「すでにあるもの」を解き放つだけです。
ゆえに、大胆に命じましょう。
「主イエスの御名とその流された血潮の権威によって、悪しき霊よ、おまえに命じる。ここは神の支配のもとにある場所だ。おまえがいることはできない。ここから立ち去れ」
御国は、すでに来ているのです。そして、それは私たちによって日々拡大されていくものなのです。
あなたが歩くその地すべてに「御国」が来ます。神が治められ、神の栄光が現れます。
宣言しながら歩いてください。
「御国が来ますように」「来たれ、あなたの国」と宣言しながら歩くのです。
職場に行って宣言します。
買い物先で宣言します。
知り合いの家に行ったらそこでも宣言します。
朝、起きて部屋でも宣言します。
いたるところで宣言するのです。
そうすれば、うちにおられる聖霊様の御力により「神の栄光」が必ず現れます。
願わくば、日本中に「御国が来ますように」との祈りが響き渡りますように。
いまだ御国はきていません
次に「いまだ」来ていない御国について考えてみます。
「御国が来ますように」とは、言い換えれば「主イエスよ、来てください」と言うことです。
「人の子」すなわちイエス様は、「御国とともに」来られます。
イエス様は一度、来られました。そして、再び来られます。二度目はまだ来ていません。二度目に来られるとき、そのときには「御国」とともに来られるのです。
天の御国から目を離さないように
私は、主イエスが来られることを心から待ち望みます。
パウロは「私たちの国籍は天にある」と言います。「天の故郷」について思い巡らせることはとても有意義なことです。
私の救いの一番の動機は「天国に行きたい」「滅びたくない」というものでした。単純な人間なのです。ですから、救われた当初から「天国」について考えることが嬉しくて楽しくてたまりませんでした。
けれど、救われてから何年も経つと、いくら単純な私でも「色々なこと」を知っていくのです。
そして、そんな「色々なこと」に紛れて「天国」について思い巡らすことが少なくなっていきました。
「色々なこと」で精一杯になってしまったのです。他のもっと大切なことを考えねばと思ってしまったのです。
例えば…
霊の戦いとか…
聖霊のバプテスマとか…
教会の人間関係とか…
教会の会計とか…
仕事のこととか…
とにかく私の頭は「色々なこと」でいっぱいになってしまったのです。「天国」とか「永遠のいのち」とか「初歩的なこと」に時間を割いているヒマなどなかったのです。(それは、たいへんな勘違いです)
そうすると、どうなると思いますか?
そうすると「天的ないのち」を失います。
すべての「良いもの」は上から来るのです。そして、上からの知恵は「純真」です。
上を見上げることをやめた私から「すべての良い贈り物」と「純真」が失われるのは時間の問題でした。
それらが失われたならどうなるでしょう。
私は、「色々なこと」を解決するために「御国」から目を離してしまいました。「地にあるもの」を解決するために、一生懸命に知恵を絞りました。しかし、それが逆に「秩序の乱れ」や「邪悪な行い」を招いてしまったのです。
「色々なこと」を解決する唯一の方法は「上にあるもの」を思うことです。「地にあるもの」を解決するために必要なことは「御国を思う」ことなのです。
「御国を思う」ことは「そこに座しておられる方を思う」ことです。そして、「御国を思う」ことは「天に名が記されていることを喜ぶ」ことでもあります。
これ以上に大切なことは他にはありません。
「御国の証拠」は、「悪しき霊を追い出すこと」です。しかし、それは「証拠」つまり「しるし」です。私たちは「証拠」に一喜一憂せず「天に名が記されていること」を喜びます。
つまり、「御国を思う」のです。
主よ、来てくださいと祈ります
「御国を思う」人が最も強く願うことは何でしょう?
それは「主イエスにお会いすること」です。「御国を思う」人は、必ず「主よ、来てください」と言います。
主の到来は「早める」ことができるのです。「神の日が来るのを待ち望み」到来を早めるのです。
「御国が来ますように」「来たれ、あなたの国」
それは、イエス様の2回目の到来を早める宣言です。
私たちは「やがて来る御国」と「再び来られる方」を待ち望むことをやめてはなりません。
それこそ「望み」です。最も基本的かつ、最も重要な「望み」です。
終わりの時代を生きる私たちにとって「再臨の主を待ち望むこと」は必須事項であり、「神の民」の証明でもあります。
イエス様は、「神の国がすぐに現れると思っていた」人々にたとえ話をしてくださいました。
イエス様は「王」として戻って来られます。私たちは、「主人の帰りを待つしもべ」です。
「しもべ」は与えられたものを精一杯活用して、「主人」の帰りを待ち望むのです。これが、終わりの時代の「主のしもべ」の姿です。
しかし、「主人」が王になることを望まない「人々」はどうなるのでしょう。
主イエスの再臨を待ち望むとは、主イエスが王として統治されることを待ち望むことです。
十ミナで儲けることを心配する前に考えるべきことがあるのです。
「私は、イエス様が王となられることを心から望んでいるだろうか?」
私たちはみな、「主人の帰りを待つしもべ」でなければなりません。
「御国が来ますように」とは、「主イエスよ、来てください」と言うことです。
そして、2回目に来られるイエス様は「統治者・王」として治められる方です。
「すでに」と「いまだ」の間に生かされている
神の国はすでに来ています。それは本当のことです。しかし、神の国はまだ来ていません。それもまた本当のことです。
少し難しいことばで言いますと…
「すでに」と「いまだ」の緊張関係に生きているなどと表現されます。
神の国は「すでに」来ました。しかし、「いまだ」成就されていません。
イエス様が「神の国」を「種」に例えられたのはとてもわかりやすいと思います。
さて、ここに「トマトの種」があるとしましょう。
この「トマトの種」は「トマトの実」ではありません。しかし、「種」も「実」も「トマト」と呼ぶことはできます。
なぜなら「トマトの種」には「トマトの実」になるために必要な「いのち」がすべて含まれているからです。
神の国とは「種」のようなものです。
それは「今、すでに」蒔かれていてここにあります。しかし、「いまだ」成長段階で完成していないのです。
「からし種」は「小さい種」だとイエス様は言われました。しかし、生長すると「木」のように大きくなります。
「小さな種」の中に「爆発的に広がるいのち」が含まれているのです。そして、それは見えないけれど「種」の中にすでにあるのです。
「神の国の種」は、私たちの心に蒔かれました。それは「神のことば」です。
少なくても三十倍です。素晴らしいですね。
それは、あなたの能力や力ではなく「種」の中にある「いのち」の力です。私たちは、良い地、耕された地であればよいのです。つまり、上からの「純真」さを持って「みことば」を受け入れることです。
神の国は私たちの「ただ中」にあります。それは、見えないけれど確かにあるのです。
そして、また、神の国は後に来ます。それは、今は目に見えない方が「見える姿」で来られるときに明らかにされます。
私たちは、それを信仰によって確信しながら生きます。
この地で、御国を拡大しながら、イエス様が御国とともに来られる日を待ち望みます。
御国が来ますように。
来たれ、あなたの国。
毎日、そして、どこにいても宣言しましょう。
御国の祝福があなたに臨みますように。