詩篇23:1
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
私たちは飼われているのです
主は私の羊飼いです。私たちは、主に飼われているのです。
私たちは、時々、その事実を忘れてしまって、一人で生きているかのように行動してしまいます。
自分勝手な道が辿り着くのは「滅び」です。自分勝手な道を行くのは罪です。
羊には、羊飼いが必要です。自分勝手な道を行くことを、人は自由であるとか、自立しているとか言うのです。
イエス様から離れた自由などあり得ないし、そもそも、アダムとエバの背きの罪は「自立」したことではないですか。
サタンは「自由に生きろ、縛られる必要はない」と言います。しかし、イエス様を離れた自由などあり得ないのです。イエス様から離れた瞬間、私たちは即、罪の奴隷です。死の恐怖という鎖につながれます。
サタンは「自立こそ大人のクリスチャンの有り方だ」と言うでしょう。
しかし、人は「自立」するようには造られていません。自ら「神のようになって」生きることは「いのちの木」への道を断つことです。私たちは、ぶどうの木から離れたら、枯れるだけの枝です。実を結ぶ、成熟したクリスチャンとは、主に全面的に依存して生きる人のことです。
私たちは、主の牧場の羊です。もう自分勝手な道を行く人生は終わりました。
私たちは、主に導かれて行くのです。主が私たちを緑の牧場に伏させます。憩いの水のほとりに導かれます。私たちは、何を食べるか、何を飲むかと心配する必要はありません。
飼われていることを忘れてはなりません。私たちは、迷子の羊ではないのです。
一人で歩いているような生き方はやめて、ともにおられる主を見てください。あなたが、見上げるのを、主は待っておられるのです。
私たちがわざわいを恐れずに歩める理由は一つ、「主がともにおられるから」です。
今日も、主がともにおられます。
あなたの道が、今、どのような道であっても、主がともにおられるのです。
安心して、ともにおられる方を見上げ、勇気をもって行きましょう。
私は主に飼われています。
主は、常にともにおられます。
私は、わざわいを恐れません。