No.140 私は主に飼われています!

羊の親子

詩篇23:1
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

私たちは飼われているのです

主は私の羊飼いです。私たちは、主に飼われているのです。

私たちは、時々、その事実を忘れてしまって、一人で生きているかのように行動してしまいます。

イザヤ53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって言った。しかし、主は私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。

自分勝手な道が辿り着くのは「滅び」です。自分勝手な道を行くのは罪です。

羊には、羊飼いが必要です。自分勝手な道を行くことを、人は自由であるとか、自立しているとか言うのです。

イエス様から離れた自由などあり得ないし、そもそも、アダムとエバの背きの罪は「自立」したことではないですか。

サタンは「自由に生きろ、縛られる必要はない」と言います。しかし、イエス様を離れた自由などあり得ないのです。イエス様から離れた瞬間、私たちは即、罪の奴隷です。死の恐怖という鎖につながれます。

サタンは「自立こそ大人のクリスチャンの有り方だ」と言うでしょう。

しかし、人は「自立」するようには造られていません。自ら「神のようになって」生きることは「いのちの木」への道を断つことです。私たちは、ぶどうの木から離れたら、枯れるだけの枝です。実を結ぶ、成熟したクリスチャンとは、主に全面的に依存して生きる人のことです。

詩篇100:3
知れ。主こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。

私たちは、主の牧場の羊です。もう自分勝手な道を行く人生は終わりました。

私たちは、主に導かれて行くのです。主が私たちを緑の牧場に伏させます。憩いの水のほとりに導かれます。私たちは、何を食べるか、何を飲むかと心配する必要はありません。

飼われていることを忘れてはなりません。私たちは、迷子の羊ではないのです。

一人で歩いているような生き方はやめて、ともにおられる主を見てください。あなたが、見上げるのを、主は待っておられるのです。

詩篇23:4
たとえ、死の影の谷を歩むとしても 私はわざわいをおそれません。あなたが ともにおられますから。

私たちがわざわいを恐れずに歩める理由は一つ、「主がともにおられるから」です。

今日も、主がともにおられます。

あなたの道が、今、どのような道であっても、主がともにおられるのです。

安心して、ともにおられる方を見上げ、勇気をもって行きましょう。

私は主に飼われています。
主は、常にともにおられます。
私は、わざわいを恐れません。