ヨハネ6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
御父のみこころは永遠のいのちです
ある伝道師の証です。
その伝道師は、一人で開拓伝道に遣わされていました。主に忠実で熱心な人でした。毎日、早天祈祷をし、毎日、熱心にトラクトを配布しました。一日に、一人で二万枚も配ったそうです。けれど、実りはありませんでした。
悲しくなって、母教会に戻って、牧師に相談したと言います。
「先生、私は熱心に仕えています。毎日、何時間も祈っています。トラクトも配っています。こんなことを言うのは申し訳ないのですが、先生は、私ほど祈っておられないし、毎日、兄姉とお茶を飲んで話しておられるだけです。それなのになぜ、救われる人が与えられるのでしょう」
かなり失礼な相談の仕方ですが実話です。本当は、もう少し失礼でした(笑)
実際には、その牧師は、それはよく祈っておられました。それに、忙しく奉仕もしておられました。
しかし、不思議と「ゆとり」があるように見えたのです。
その牧師は笑って答えてくれたそうです。
「主がやれと言われることだけすればいいのです。主が板の四隅に釘を打てと言われたのなら、四隅に四本だけ釘を打てばいいのです。その他のところに何千本の釘を打っても無駄なだけですよ」
イエス様は、お忙しく働いておられました。どこに行っても人々に取り囲まれました。
しかし、お忙しすぎて「イライラ」されることはありませんでした。
どれほどお忙しくても、そこを抜け出し「ひとりで」祈る時間を持たれました。主は、忙しくて「祈る時間もない」とは言われませんでした。
取税人たちと食事をされる「ゆとり」も、ラザロやマルタたちと団らんされる「ゆとり」もあったように見えます。
イエス様は、誰よりも「御父のみこころ」を分かっておられました。
主は、それが「正しいから」行われるのではありません。
主は、それが「人から求められていることだから」行われたのではありません。
イエス様は、地上において「御父のみこころ」だけを行われたのです。
御父の命令は「永遠のいのち」です。とてもシンプルなことなのです。
そして「永遠のいのち」とは「神を知ること」です。
ここで「知ることです」と訳されている語は「知り続けること」と訳すことができます。
そして、それは「知識」だけではなく「体験的に知る」というニュアンスを含んでいます。
私たちは、永遠に知り続けるのです。
この地においても、生かされている限り「主を知る」ことを求めましょう。
それこそ「御父のみこころ」です。
そうすれば、行うべき必要なことが自ずと分かるはずです。
主を知ることを切に求めます
私は主を知り続けます
私は「永遠のいのち」に生かされています