【ピリピ4:8】
最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に価することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
すべての愛すべきことに目を留めます
ジョン・ハイドは、米国からインドに遣わされた宣教師です。「祈りの使徒」と呼ばれることもあります。
あるとき、ハイドは「インドのある牧師」のために祈っていました。あまりの重荷に押しつぶされそうになりながら心を注ぎだし祈っていたのです。
そのときの話を「祈りのハイド」という本から引用します。
そこで彼は、自分の「密室」に退き、その牧師の冷淡さと、その結果としての彼の教会の死んだ状態を思いながら祈り始めました。「ああ、父よ、あなたはどんなに冷たいかをご存知です……。」彼が続いて言おうとしたとき、一本の指が彼の唇に当てられたように感じ、それ以上ことばを発することができませんでした。そして、彼の耳に、「彼に触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」という声が聞こえました。ハイドは悲しみつつ呼ばわりました。「父よ、お赦しください。私はそのことにおいて、あなたの御前に兄弟を訴える者でした。」と。彼は、神の御前において「すべての愛すべきこと」に心をとめなければならないことを知りました。
祈りのハイド フランシス・A・マッゴー著 いのちのことば社 p54
主は、とりなしの祈りにおいてでさえ兄弟姉妹の罪を告発することを嫌がられます。たとえ、それが本当のことであったとしても、主の御前にその人を告発することは「主のひとみに触れること」なのです。これは厳粛な真理です。私はこのことを重く受け止めなければなりません。
私は、自分がまだ完成されていないことを知っています。栄光から栄光へと変えられている途中です。それは、「あの人」もそうであるのです。
「すべての真実なこと」とは、今、目の前に見えている物事ではありません。それは変わっていくものです。
「真実なこと」は主の御手の中にあります。
「尊ぶべきこと」「正しいこと」「清いこと」「愛すべきこと」「評判の良いこと」
それらのすべては、主の御手の中にあるのです。
ジョン・ハイドがこの真理を啓示された、ちょうどその時、彼がとりなして祈っていた牧師は「信仰の復興」を体験しました。そして、その牧師の説教はその後、熱烈なものとなったそうです。
兄弟を告発することは、サタンと同じ罪です。私たちの祈りは、「告発」ではなく「とりなし」でなければなりません。目に見えている「その人の言動」に惑わされず「主の見ておられる真実」を一緒に見ることができるように求めましょう。
主よ、知らない間に「告発」する立場に立たないようにお助けください。私は「あなたのひとみ」に触れたくはありません。
私はすべての真実なこと
愛すべきことに心を留めます。