ガラテヤ6:9
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
弱り果ててしまうこともあります
「失望せずに」と聖書は言います。「落胆せずに」と訳すこともできます。
「あきらめずに続ければ」と聖書は言います。「弱り果てないで」と訳すこともできます。
私たちは「落胆し」「弱り果ててしまう」ことがあるものです。
一心不乱に集中しているときには、何も考えずに生きられるけれど、フッと気が抜けた瞬間、「いったい自分は何をしているのだろう」と思うのです。
私は、時々、自分のしていることは「砂漠に水をまく」ようなことではないかと思ってしまうのです。そして、なんだか切ない気持ちになったり、やる気を失いそうになったりするのです。
とても落胆してしまって、本当に「自分のしていること」は「みこころ」なのだろうかと考えだしてしまうのです。
なぜ、「落胆」したり「弱り果てたり」してしまうのでしょう。
それは、私が「自分のしていること」に目を向けたからです。つまり「主イエス」から目を離してしまったからです。
あきらめずに続ければ「時が来て」刈り取ることになると聖書は言います。
この「時」という言葉は、時間をあらわす語ではありません。「カイロス」というギリシャ語が使われていますが、それは「定まった時」「ちょうどよい時」をあらわします。
主には、ご自身の「定められた時」があるのです。それは、私たちの思う「ちょうどよい時」ではないかもしれませんが、主が「ちょうどよい」と思われる「時」なのです。
時が来れば、砂漠に花が咲くことを私たちは信じます。
真実に愛した、その見返りが蔑みであったとしても。優しい言葉への返事が罵声であったとしても。種を蒔いても蒔いても、何も実らないように見えたとしても。
それでも、あきらめないで続けましょう。
さあ、立ちあがりましょう。
弱った手を力強く振って、もう一度、しっかりと立って歩くのです。弱り果てた心に「しっかりせよ」と言いましょう。
砂漠に水を撒く「自分の姿」を見てはなりません。「時」が来れば「砂漠に花をさかせる」ことのできる方を見上げなさい。
私たちは、御言葉を蒔き続けましょう。愛し続けましょう。祈り続けましょう。
失望せずに、あきらめずに続ければ、必ず「時」が来ます。
私たちは、必ず「神の栄光」を見ることができます。
私はあきらめません
砂漠に花を咲かせる主の御力を信じます
主の時を待ち望みます