マタイ6:34
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日に十分あります。
明日は、明日が心配します
イエス様は「明日のことまで」と言われました。
つまり「あなたがたは、明日のことを心配しているが、そんな余裕があるのか」ということです。
考えてみれば、確かに私の心配事は、たいていの場合「明日以降」のことなのです。
私たちの主は「永遠の神」ですが、この地上での「一日一日」を非常に大事に思っておられます。
イエス様は「日ごとの糧をお与えください」と祈るようにと教えてくださいました。
「日ごとの糧」とは「今日の分の糧」と言うことです。
「明日の糧」ではありません。私たちは「今日の糧」つまり「一日分の糧」を求めて生きるようにと言われているのです。
イスラエルが荒野を旅していた時、主は「天からマナ」を降らせてくださいました。
天からのパンは「毎日、その日の分だけ」を集めなければなりませんでした。
これは「彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである」と主は言われます。
イスラエルは、試みられていたのです。それは、一日一日を主だけに頼って生きるかどうかの試みです。
彼らは「その日の分をその日のうちに」食べなければなりませんでした。朝まで残しておいてはならなかったのです。
しかし、ある人たちは言うことを聞かず「朝まで一部を残して」置きました。しかし、その「残しておいた分」には「虫がわき臭くなった」のです。
「明日」を心配するのはやめましょう。「明日のために溜め込んでも」結局それには「虫がわき臭く」なるだけです。今日の分以上のものは「無駄」になるということです。
「明日の分」は、私たちのものではありません。私たちは「今日の分」だけを集めればよいのです。
私たちは「その日の分」を主に求めて生きましょう。
「日ごとの糧」を本気で求めて生きる者とされましょう。
主は、日ごとの求めに応じて「力」を与えてくださいます。
「今日」生きる力を求めましょう。一日一日、ただ主に拠り頼んで歩む者とされましょう。
「苦労」は、今日一日に十分あります。
「苦労」と言う語は「悪」「不道徳」「悪意」「意地悪な心」「災い」などとも訳せます。
確かに、私たちは一日の中で様々な「悪」に出会います。「今日」を生き抜くのもなかなか大変ですよね。
私たちは「今日」を精一杯に生きましょう。一日一日、主にすがって生きましょう。一瞬一瞬、主を求めて歩みましょう。
主は「今日の分」の生きる力を必ず与えてくださいます。「苦労」に耐える「十分なマナ」を与えてくださいます。
私たちに「明日」は分かりません。「明日」は、主の御手にのみあります。
「明日」のことは、それが「今日」になったときに、また求めればよいのです。
明日は、主の御手にあります
私は、明日を心配しません
今日の分の必要は必ず満たされます