【ヨハネ20:18】
マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
墓には何もありませんでした
マリアは墓の外にたたずんで泣いていました。
どうして泣かずににいられるでしょうか。
マリアの最も愛するあの方は葬られたのです。犯罪人のように追い立てられ、嘲られ、ムチ打たれ、見るも無残な姿で十字架に架けられたのです。
マリア達はこの方が確かに死なれたことを確認しました。その日は、大いなる安息日のための備え日だったので、急いで亜麻布を巻き、この墓に安置したのです。
それなのに今朝、墓について見ると、石が取りのけられていたのです。「誰か石を動かしてくれるかしら」と心配しながらやってきたのに、すでに石が取りのけてあるのです。
イエス様のご遺体は、どこにもありません。大急ぎで弟子たちを呼びに行きますが、弟子たちが見たところで事態は変わりません。
そのような理由でマリアは、一人で墓に残り、そうして、ただ泣いているのです。
すべてが失われました
マリアにとってイエス様はすべてでした。
マグダラのマリアと呼ばれる彼女は、七つの悪霊を追い出してもらったのです。
七つの悪霊が具体的に、どのような状態を引き起こしていたのかわかりません。
けれど、ものすごく悲惨な状態であったのだろうということは想像できます。彼女は孤独であったでしょう。七つの悪霊に憑かれた女性と喜んで一緒に居る人はいなかったと思います。周りの人は、どのような目で彼女を見ていたのでしょうか。
内側からも外側からも、悪しき霊の圧迫に悩まされていたでしょう。おそらく自分で自分をコントロールすることもままならなかったのではないでしょうか。
激しい怒りが心を支配することもあったかもしれません。自分で自分を傷つけることもあったかもしれません。自分を愛することも、誰かから愛されることも諦めていたでしょう。
彼女の人生に「希望」という文字はなかったのです。
しかし、彼女はイエス様にお会いします。この出会いは、マリアの人生を一変しました。イエス様は、マリアを圧迫し苦しめる悪しき霊を追い出してくださったのです。
出口の無い暗闇に光が差し込みました。
まさにマリアの人生に光が輝いたのです。
その日から、彼女にとってイエス様は「希望」となりました。弟子たちとともに、許されるところには彼女もつき従っていたのです。
ところが、その愛する方が、マリアの希望そのものである方が、無実の罪で連れていかれたのです。そのまま十字架にかけられ処刑されてしまったのです。
マリアは、最後の瞬間までイエス様のそばにいました。
イエス様の十字架のお苦しみを間近で見上げていたのです。その苦しみの姿は、彼女の心から一生消えないでしょう。
イエス様は死なれました。彼女の希望は失われました。
今は、ただ、そのご遺体に香油を塗ってさしあげたい、在りし日のお姿を偲びたい、まだイエス様のおそばにいたい、それだけだったでしょう。
マリアも弟子たちも、イエス様が言われたことを全く思い出しませんでした。悲しみで、心が押しつぶされて、何も考えられなかったのです。
イエス様は、悲しい心の状態をわかっておられます。
イエス様は、マリアの心が悲しみでいっぱいであることをご存知です。嘆き、悲しむことをご存知です。
主が言われたとおり、今はまだ、マリアの心は悲しみで満たされていて「何もわからない」「何も見えない」「何も聞こえない」状態であるのです。
彼女はすべてを失ったと思っているのですから。
墓の外でたたずむだけです
マリアは、イエス様が墓の中におられないことを知っていました。それでも、今一度、もう一度だけでも、「主のお身体に香油を塗って差しあげたい」と、そのことが諦めきれないのです。
過去の主イエスの姿、その笑顔を、その言葉を思い返していたのでしょうか。あの七つの悪霊から解放してくださった力強くて、優しい、あの方はもういらっしゃらないのです。
「どうすれば良かったのかしら?」と考えたかもしれません。「主がおられる間に、もっともっとお仕えすればよかった」などと思ったかもしれません。
人は、時にこのマリアのような状態に陥ります。
失くしてしまったもの、もう二度と手に入らないもの、そのことを考えて「ため息をつく」のです。
「あの時は、よかった」「あの時、もっとちゃんとしていれば」「あんなことさえなければ」
過去は葬られて、その墓の中には何もないことを私たちは知っているのです。それは、もう二度と戻らないものであると私たちは知っているのです。
しかし、諦めきれないのです。マリアのように墓の外で泣いているのです。やる気を失い、過去の墓のそばでたたずんでいるのです。
ジェーンの話をさせてください
ある女性の証を紹介させてください。
ジェーン(仮名)は、20代の半ばで難病にかかりました。
早老症は、老化に似た症状が実際の年齢よりも前倒しされて、若いときから見られる病気です。
国立長寿研究医療センターHPより
早老症とは、十種類ほどの病名の総称だそうです。
ジェーンの身体は、どんどん年を取っていきました。29歳の時には「50代?」と聞かれるようになったと言っています。
若い時代、美しく輝ける時代をジェーンは家にこもって泣きながら暮らしました。
ジェーンだって、おしゃれもしたかったのです。美容室に行ってカットをして、流行りの服を着て、子ども達と遊園地で遊んでみたかったのです。
しかし「50代」に見える自分と連れ立って歩くなんて、幼い子ども達は、嫌だろうと思ったのです。夫であるジョン(仮名)は、なおさらこんな妻を知人に見られたくないだろうと思ったのです。
実際、子どもたちは、そんなことを気にしてはいませんでした。大好きなママとお出かけしたいと思っていました。ジョンだって、彼女の病を気の毒だと思っていました。できる限り力になりたいと考えていたのです。
ジェーンは、ふさぎ込んで誰にも会おうとしませんでした。「見た目の若さとともに、心の若さも失った」と彼女は言いました。
ジョンは、良いご主人でした。ふさぎ込む彼女を、慰めたり、励ましたりしました。しかし、ジェーンの心にその言葉は届きませんでした。あえなく2人は離婚することになりました。
ジェーンは言いました。「誰の愛も信じられなかったの。こんな自分を誰も愛してくれるわけがないもの」
ジェーンは、絶望の中に生きていました。心の若さを失ったジェーンは、同時に希望も愛も失ったのです。
彼女も過去という墓の前にたたずみ泣いていたのです。
「昔は、よかった」とうなだれて、一瞬でも、過去を捕まえられないかと墓の前から動けずにいるのです。
誰のことばも届かない
マリアは、墓の中にイエス様がおられないことはわかっていました。
しかし、もう一度、もう一度と、のぞき込まずにはいられなかったのです。
白い衣を着た2人の御使いが、マリアに言います。
「なぜ泣いているのか?」と。
マリアの心は悲しみでふさがれていて、御使いがいることに反応しません。
ただ答えます。「だれかが、私の主を取っていったのです」
御使いの声を注意深く聞けば、その質問の意図が汲み取れたでしょう。
「なぜ泣いているのか?」とは、暗に「泣く必要もないのに」との意味が含まれていることに気づけたでしょう。
しかし、マリアは「私の主が取られた」と思いこんでいたので、そこに気がつくことができませんでした。
「取られたのです」
「だれかに私の主が取られたのです」
「私の希望が失われたのです」
「私のすべてが奪われたのです」
「どこに置かれたのかわからないのです」
なんと悲痛な叫びでしょう。この個所を読むたびマリアの悲しみが、痛いほど伝わってきて私も泣けてきます。
「どうすればいいのかわからない」とマリア思ったのです。
「奪われた」と私たちは思います。「取り戻せない」と私たちは泣き崩れます。「取られた」と叫びます。
あなたが「失った」「奪われた」「取り戻せない」と思うものは何ですか?
それは愛ですか?
平安ですか?
若さですか?
時間ですか?
愛する人ですか?
夢ですか?
言葉ですか?
私たちは皆、過去という墓の前にたたずんでしまうことがあるものです。人はその墓の前でどうすることもできません。ただ、たたずんで泣くだけです。
イエス様はよみがえられました!
マリアは、うしろを振り返りました。墓の中から目を離し、振り返ったのです。誰も何も言っていないのに、何か気配を感じたのでしょうか。
そして、そこにイエス様が立っておられるのを見ました。
イエス様が、立っておられたのです。しかし、マリアは悲しみに目がふさがれていてイエス様が分かりません。
イエス様は、マリアに言われます。「なぜ泣いているのか?」と。御使いの質問と同じです。そこには、暗に、泣く必要もないのにという意味が込められています。
「誰を捜しているのか。探す必要もないのに。」
イエス様は、マリアに言葉をかけられますが、マリアまだ気づきません。
人の失望、絶望は、なんと強固に心を塞いでしまうものでしょう。マリアは、イエス様に向かって言うのです。
「あなたが取って行ったのですか?」
「あの方を返してください」
イエス様は、「マリア」と呼ばれました。
その時、その瞬間、マリアは気がついたのです。振り返ってイエス様を見上げました。
ここは聖書の中で最も美しい場面と言われます。
園の中で墓を背にしてイエス様を見上げるマリア。
「マリア」と名前を呼んでくださるイエス様。
「ラボニ」と答えるマリア。
確かになんと美しい光景でしょう。
人がイエス様を見上げる姿は、世界で最も美しいと思います。
人は希望を取り戻す瞬間、最も強く輝くと思います。
イエス様は、よみがえられたのです。
素晴らしい響きですね。もう一度言いましょう。
「イエス様は、よみがえられたのです!」
失ったように見えたマリアの希望は、誰にも奪われていなかったのです。
イエス様を信じる者は決して失望させられることがないのです。
マリアは喜びで満たされました。これ以上ないというほどの喜びです。
イエス様が生きておられるのですから。
その喜びを奪い去るものは、もはや何もないのです。
引き離すものはありません
私たち人間にとって「死」とは絶望です。「死」によって私たちは打ちのめされるのです。
しかし、この瞬間、その「死」でさえも、もはやイエス様とマリアを引き離せないことが確実となったのです。
最後の敵であった「死」は滅ぼされます。
もはや私たちは「死の恐怖」につながれてはいません。「死」は、私たちを主イエスから引き離すことはできないのです。
何ものも、どんなものも、主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。
ジェーンの話の続きです
ジェーンの話には続きがあります。
40代となった彼女は、ますます人を避けるようになりました。29歳で50代に見えたのです。40代の今となっては…
子どもたちは、ジェーンを心配して色々と世話をしてくれました。しかし、彼女の心には響きません。
けれど、ある時、古い友人から連絡がきたのです。昔、親友であったその古い友人は、末期の癌と診断され余命一年と宣告されていました。
残り少ない命をジェーンのために使おうとしてくれている親友の声は、ジェーンの心に届いたのです。
「今度の日曜日、気分転換をかねて、私の教会に来てね」と友人はジェーンに言いました。
人と会うのは嫌だとジェーンは思いましたが、友人の声に従って教会に出向いたのです。
誰もジェーンのことなど知りません。ジェーンの本当の年齢を知らないので、ただの老婦人が教会に来たと思いました。ジェーンは、とりあえず礼拝に出席したのです。
そして、賛美の時間がもたれました。イエス様への感謝をささげる歌が歌われました。
なぜだかわからないけれど、ジェーンの目から涙が溢れました。
礼拝の後、彼女は言ったのです。
「何もかも失ったと思っていたけれど、愛はあったのね」
彼女はイエス様が愛してくださることに気が付いたのです。
そして同時に、家族や友人が自分を愛し続けてくれていたことにも気が付いたのです。
ジェーンの病は癒されたわけではありません。外見上の若さを取り戻しはしませんでした。
しかし、彼女は引きこもることをやめました。今のままの自分を受け入れたのです。絶望は彼女から去りました。彼女は、墓の前でたたずむことをやめたのです。
過去の墓から目をあげて振り向いたのです。
そこには、ジェーンを愛しておられるイエス様が立っておられました。
さあ、行って伝えなさい!
過去の墓の前でたたずんでいても、私たちには何も取り戻すことはできません。
イエス様は、何のために十字架にかかり死んで葬られたのでしょう。
失ったものを嘆いて墓の前にマリアを縛り付けておくためでしょうか。
マリアは、墓から目を離し、振り向かねばなりませんでした。
「あの時は、よかった」「あの時、ああしなければ良かった」
過ぎ去った過去をいつまでも偲んでいても、前には進めません。過ぎてしまったことを、いつまでも悔やんでいても何も変わりません。過去は、葬られなければならないのです。
私たちの古い人は葬られました。
私たちは、自分の肉をすべて十字架につけたのです。それは葬り去られました。
イエス様は、マリアに言われました。
「すがりついていてはいけない。さあ、行きなさい。」
主は、よみがえられたのです。
私たちの主は、今、生きておられるのです。
私たちは嘆く必要などありません。
いつまで墓の中をのぞいているのですか。そこにはもうおられません。よみがえられたのです。
マリアが駆けていく姿が見えるようです。扉を開けて、部屋に飛び込み「私は主を見ました」と叫ぶ姿が見えるようです。
あれが、さっきまで墓の外で泣いていた人の姿でしょうか。絶望に打ちひしがれていたマリアは、もうどこにもいません。
よみがえりのイエス様に出会ったなら、人は変えられるのです。
「私は主を見ました」
世界で一番素晴らしいセリフは、おそらくこれです。
「私は主を見ました」
「私は主に出会いました」
あなたは主を見ましたか?
主に出会いましたか?
過去の墓から目を離して振り返るのです。向きを変えて、上を見上げるのです。
そこには、イエス様が立っておられます。
よみがえりの主が立っておられます。
そして、あなたの名を呼んで言われます。
「さあ、行きなさい。行って伝えなさい」と。
私たちも行きましょう。
そして、伝えましょう。
私は主を見ました!
主は今、生きておられます!