ヨハネ13:1
さて、過越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
それは愛を現わす手段でした
それは、イエス様が捕らえられる日のことでした。
「最後まで」とは「極みまで」とも訳せます。
最後の最後まで、ご自分の愛を極みまで、余すことなく…
イエス様は、その愛の現れとして「一人ひとりの足を洗って」くださったのです。
それは「へりくだり」以上のことです。ただ単に「嫌な仕事を引き受けてしもべの役をされた」だけではないのです。
ペテロにとって、主イエスに足を洗わせるなんて「とんでもないこと」に思えたでしょう。彼は大慌てで拒みます。しかし、それは「極みの愛」を拒否することです。
主イエスの愛を拒否するならば「あなたはわたしと関係ない」と言われてしまうのです。
自分で自分の汚れを落とそうとするのはやめなさい。
日々、恐縮しながらも、そのまま汚れた足を差し出しなさい。
あなたの前に膝をつき、その足を御手にとってくださる方を見つめなさい。
あなたにも「極みまでの愛」が注がれています。その愛を心から受け取りなさい。
仕えるために、与えるために来てくださった方の愛を受け取りなさい。
十字架ですべての血を流してくださった方の愛を受け取りなさい。
豊かさを超えて「極みまで」注がれた、その愛を受け取るのです。
私たちは、その愛を前にして、悔い改めずにいられるでしょうか。
その愛を前にして、自分自身を献げずにいられるでしょうか。
その愛を受け取って、兄姉の足を洗わずにいられるでしょうか。
「足を洗う」ことは「極みの愛」の現れでした。
私たちは、このことによって「へりくだり」が目的ではなく「愛を現わす手段」であることを知ります。
まず、イエス様の「極みの愛」を心から受け取ることです。
日々、主イエスの「極みの愛」を心に染み渡らせることです。
そうして、聖徒のうちに「極みの愛」があふれるようになりますように。
主イエスの愛を受け取った者として、私たちは「互いに足を洗い合う」のです。
主よ、極みの愛を受け取ります
イエス様の愛を日々、受け取ります
極みの愛にあふれる者としてください

