マルコ16:3~4
彼女たちは「だれか墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
石が転がしてあるのが見えました
マグダラのマリアたちは、主イエスの御体に油を塗るために墓に向かっていました。
彼女たちは、大きな石を「どのように取り除くか」ということを心配していました。
しかし、墓にたどり着くと、すでに「その石が転がしてあるのが見え」ました。
主イエスは、よみがえられたのです。
「石が転がしてあった」のは、イエス様が外に出るためではありません。
「石が転がしてあった」のは、マリアたちのためです。彼女たちが、主イエスの復活を確認するためです。
よみがえりの主イエスは、弟子たちが鍵をかけて隠れていた部屋に現れることがお出来になるのです。
どれだけ大きな石でも、どんなに封印されていても、墓の中にイエス様を閉じ込めておくことなどできません。
石を転がさなくても、主は、外に出ることがお出来になりました。
御業は、もう終わっていたのです。すべてが完了していました。
愛する兄弟姉妹。
あなたの「大きな石」について心配する必要はありません。
どれだけ「大きな石」も、主にとっては「何の障害にもならない」のだということを覚えていてください。
「誰が石を転がしてくれるだろう」という婦人たちの心配は「無用」でした。
主イエスは、すでによみがえっておられました。聖霊の御力は、すでに現わされていました。
「石を転がしてください」との祈りは「無用」です。
必要なのは「信じること」です。
見えないところで「主のみこころが成されている」と信じることです。
マグダラのマリアたちは「願う以上のこと」を体験しました。
彼女たちは「せめてご遺体に油を」と願ったのです。そのために「石」が邪魔だと思いました。
しかし、主のみこころは「はるかに高く、及びもつかないこと」でした。
主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」です。
「大きな石」を見て、イライラしたり、焦ったり、落胆したり、諦めたりしてはなりません。
それは「問題ではない」のです。
主は墓の中で「及びもつかない大いなること」を成しておられます。
あなたは「石が転がった」とき、それが「問題ではなかったのだ」と知るでしょう。
主は、墓の中に閉じ込められる方ではありません。
イエス様を閉じ込めて置けるほどの「大きな石」は存在しません。
あなたの「大きな問題」は、イエス様の栄光を閉じ込めるほど「大きく」はないのです。
聖霊様が働いてくださっていることを信じましょう。
「願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」を心から崇めましょう。
よみがえりの主を褒めたたえます
見えないところで成される御業を感謝します
聖霊の御力をたたえます