マタイ14:30
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
どんな人でも恐れます
ミス・モークという宣教師のお証です。
モーク宣教師は、第二次大戦中、母国であるアメリカには帰らず、あえて日本に残り、不自由な抑留所での生活を選ばれました。
ある時、抑留所の係官が「防空壕」を掘っていたそうです。それを見たモーク宣教師は、こう言いました。
「少なくとも、わたしのためなら必要ありません。~中略~
あれは、日本の人たちの上に降り、あの下で皆さんが苦しみ、ことに幼い子どもたちも死ぬのかと思うと、ああ、あの爆弾が自分の上に落ちてくるようにと祈っているのです。そうすれば、その一つ分だけでも他の人たちが助かります。そういうわけですから、わたしには防空壕はいらないのです。」
仮小屋を後にして 斯波光正著 サムエル書房
このように日本を愛し、文字通り、命がけで福音を伝えて下さった宣教師の話を聞くと感謝の思いでいっぱいになります。私の牧師もアメリカ人の宣教師でした。私たちの信仰は、多くの宣教師たちの祈りの結晶であると痛感します。
さて、このように素晴らしい愛と信仰の人、モーク宣教師も、フッと気が弱くなったことがあると告白しておられます。
わたしが東京で抑留所にいたときのことです。日本の降伏したことを知りました。その時、わたしたちの抑留所内には、一つの流言飛語が起こりました。長い戦争の後ですから、みんな精神も肉体も疲れていたのでしょう。抑留所にいる者は、明日、みんな銃殺されるといううわさです。その晩、うす暗い電灯の抑留所はいやな空気でした。わたしも長い戦いの後でさすがにこわい思いが起こりました。これがわたしの実際の姿でした。
仮小屋を後にして 斯波光正著 サムエル書房
終戦直後、抑留所にいる者は、すべて処刑されるというデマがまことしやかに流れたのです。こんなことを聞いたなら、どのような人でも「恐怖」を持ってしまうでしょう。
しかし、モーク宣教師は言います。
「これが、わたしの実際の姿です」と。
どんな時でも、どこにいようとも、聖徒は恐れることはありません。実際に、モーク宣教師は飛び交う爆弾をも恐れませんでした。
しかし、今、「明日、銃殺されるかもしれない」という「うわさ」を聞いて、怯えている自分を発見したのです。
そういう状態のとき、がらんとした室の一隅に一人の男の人が立っていました。婦人ばかりのはずのこの抑留所に男の人がいるとは考えられないことです。さすがに、わたしはギョッとしました。その男の人はうなだれていましたが、やがて顔をあげて自分の方を見つめました。わたしは、その人が主イエスであることを認めました。彼の眼は、わたしの眼の中に来ました。(His eyes came into my eyes.)
そこで、わたしは言いました。『どうぞ、わたしから目を離さないでください』
すると、主イエスは『いいえ。あなたが、眼をわたしから離さないでいればよいのだよ。』と言われました。その瞬間、平和が来ました。主イエスは見えなくなりました。
仮小屋を後にして 斯波光正著 サムエル書房
イエス様は、私たちから目を離されません。
目を離してしまうのは、いつも、私たちの方です。
「波の上を歩いて、イエス様のもとへ行こう」と思ったとき、ペテロのうちに恐れはありませんでした。ペテロの目は、ただ主イエスだけに注がれていたからです。
しかし、歩いているうちに、ペテロは「強風を見て」怖くなったのです。
「明日、銃殺される」と聞いて、恐ろしく思わない人などいません。「強風」を見れば、だれでも沈むのです。
けれど、今、その場で、主イエスを見つめるならば、どんな時でも恐れは消えます。
モーク宣教師は「明日」が来る前に「平安」を得ました。その「うわさ」が偽りであると確信する前に平安を得たのです。
ペテロは「強風」がおさまる前に救い上げられました。主イエスと二人で舟に乗り込んだ後、「風はやんだ」のです。
風がやむまで「平安」にはなれないと言うのは、サタンの偽りです。
主の与えてくださる平安は「すべての理解を超えた神の平安」です。
主イエスから目を離してはなりません。
あなたを取り巻く「偽り」を退け、あなたから平安を奪うすべてから目を離しましょう。
そうして、ただ、主イエスだけを見つめるのです。
私は、偽りを退けます
私は、ただイエス様だけを見つめます
主は、決して私を見捨てられません