ホセア12:5~6
主は万軍の神。その呼び名は主。あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。
「待つ」ことで引きずり出されるのです
「待つ」ことで信仰は試されます。主は、あえて聖徒を「待たせる」ことがあります。
主は、荒野においてイスラエルの民を待たせました。律法を与えるために、モーセを呼び寄せられたのです。
民は、山に上って行くモーセを見送りました。しかし、待てど暮らせどモーセは戻って来ません。しびれを切らした民はアロンに言いました。
民は「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造って欲しい」と言いました。これが民の「本性」です。
彼らは、アロンの造った「金の子牛」に全焼のいけにえをささげました。「牛」に「牛」をささげたわけですね。「誰でも」「何でも」よかったのです。
「待つ」という期間の間に、イスラエルの民の「心」が引きずり出されました。彼らの神は「彼らの欲望」であることが明らかにされました。
サウルは、サムエルを「待つ」ことができませんでした。
サウルは、兵が「散っていく」ことに耐えられませんでした。「待つ」ことは、サウルの心から「恐れ」と「不安」を引きずりだしました。彼が「本当は何に頼っているのか」が明らかになりました。
あなたの「忍耐」は試されているでしょうか。
「待つ」ことは、あなたの心を引きずり出しましたか。
あなたから引き出されたものは「自己中心」だったでしょうか。「恐れ」だったでしょうか。「不安」だったでしょうか。
どんな「心のうち」が引きずり出されたとしても気落ちしたり、投げ出したりしてはなりません。「見捨てられたかも」と心配する必要はありません。
主は、あなたの「心」から何が引きずり出されたとしても、動じたり、責めたりなさいません。
むしろ、待ってましたと言われるでしょう。
「よし、それが本音だね。さあ、来なさい。論じ合おう」と言われると思います。
ハンナは「子を授かること」を待っていました。待っている間、彼女の心から引きずり出されたのは「募る憂いと苛立ち」でした。
もう一人の妻ペニンナに対する「苛立ち」は、相当なものだったでしょう。その「憂い」と「苛立ち」をハンナは、主の御前に持って行ったのです。
私たちは「ハンナ」のように祈りましょう。
私たちの心から、どのようなものが「引きずり出された」としても、それらをすべて御前に持って出るのです。
「自己中心的な思い」も「欲望」も、「恐れ」も「不安」も、「憂い」も「苛立ち」も…
主は「万軍の神」です。「戦って」そして「勝って」くださる方です。
私たちは、ただ「神に立ち返り」ひざまずきましょう。絶えず神を待ち望みましょう。
主は、あなたが「心のうち」を携えて御前に来ることを待っておられます。
主よ、私の心と思いを探ってください
主よ、本当のことを明らかにしてください
あなたを待ち望みます