ローマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
鈍い暗い心では神を知ることはできません
世の人は「神を知らない」と言います。神が「分からない」とも言います。
しかし、聖書は言います。
「神について知りうることは、彼らの間で明らかです」と。
つまり、人々はみな「神を知っている」のです。「神が明らかにされた」のですから、誰も言い訳はできないのです。
しかし、なぜ「神が明らかにされた」にも関わらず、誰もが「神を知らない」と言うのでしょう。
それは、簡単です。
それは、彼らの「その鈍い心は暗くなった」からです。
これは、とても深刻なことです。そして、聖徒である私たちにとっても他人ごとではありません。
私たちは「神について」どれぐらい知っているでしょう。
「神の声」が、どれぐらいクリアに聞こえているでしょう。
「神の導き」を「はっきり」と掴んでいる人はどれぐらいいるでしょう。
私は、もっと「明らかに」知りたいと切に望みます。しかし、私は、時々、神を見失ってしまうようです。
主が「何を求めておられるのか」よく分からなくなってしまうことがあるのです。
しかも、決定しなければならないことがあって、心底、導きを求めている時ほど「混乱」してしまうことがあるのです。
主は、隠れておられるわけではありません。私に「混乱」を与えたいと望んでもおられません。
世の人々に対してでさえ「神の永遠の力と神性」を明らかにしておられるのです。
ましてや、御子の血によって「神の子ども」とされた私に、「ご自身の御思い」を隠されるなどということがあるでしょうか。
私が「混乱」するのは、私の心が「鈍く」なっているからです。
心は「鈍く」なると「暗く」なります。そうすると、今まで「はっきり」見えていたものまで見えなくなるのです。
心が鈍くなる理由をパウロは二つ上げています。
一つ目は「神を神としてあがめないこと」です。直訳すると「神に神としての栄光を帰さず」です。
誰であろうと「神に栄光を帰さない」ならば、必ず「心が鈍く」なります。
二つ目は「感謝しない」と言うことです。「感謝の心」を失うとき、私たちの「心は鈍く」なるのです。
もし、思いが「混乱」したり「導きがわからなく」なったりするのなら、立ち止まって自分の心を点検する必要があります。
「自分の知恵」「自分の力」に頼っていないだろうか。自分の中に「おごり高ぶり」はないだろうか。
主以外の何か、誰かに依存してはいないだろうか。私は、神に栄光を帰しているだろうか。
私の「口」は感謝を告白しているだろうか。それとも「不平不満」を溢れさせているだろうか。
「主を知れ」とは、以前の新改訳では「主を認めよ」と訳されていました。
日々の歩みの中で「神に栄光を帰すこと」「感謝をささげること」こそ「主を認めること」です。
「神に栄光を帰し」「感謝をささげる」ならば、私から「混乱」は去ります。進むべき道がはっきりと見えるようになります。
神に栄光を帰しましょう。すべてにおいて「神の御力」を認めましょう。
感謝を告白しましょう。思っているだけでなく「口から」感謝を溢れさせるのです。
そうすれば「主があなたの進む道をまっすぐにされる」でしょう。
すべての栄光は、主のものです
すべての創造主をあがめます
どんな時も、いつでも、主に感謝をささげます