No.337 主に栄光を帰すなら、鈍い暗い心は消えます

クリアなガラス玉

ローマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

鈍い暗い心では神を知ることはできません

ローマ1:19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。

世の人は「神を知らない」と言います。神が「分からない」とも言います。

しかし、聖書は言います。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです」と。

つまり、人々はみな「神を知っている」のです。「神が明らかにされた」のですから、誰も言い訳はできないのです。

しかし、なぜ「神が明らかにされた」にも関わらず、誰もが「神を知らない」と言うのでしょう。

それは、簡単です。

それは、彼らの「その鈍い心は暗くなった」からです。

これは、とても深刻なことです。そして、聖徒である私たちにとっても他人ごとではありません。

私たちは「神について」どれぐらい知っているでしょう。

「神の声」が、どれぐらいクリアに聞こえているでしょう。

「神の導き」を「はっきり」と掴んでいる人はどれぐらいいるでしょう。

私は、もっと「明らかに」知りたいと切に望みます。しかし、私は、時々、神を見失ってしまうようです。

主が「何を求めておられるのか」よく分からなくなってしまうことがあるのです。

しかも、決定しなければならないことがあって、心底、導きを求めている時ほど「混乱」してしまうことがあるのです。

主は、隠れておられるわけではありません。私に「混乱」を与えたいと望んでもおられません。

世の人々に対してでさえ「神の永遠の力と神性」を明らかにしておられるのです。

ましてや、御子の血によって「神の子ども」とされた私に、「ご自身の御思い」を隠されるなどということがあるでしょうか。

私が「混乱」するのは、私の心が「鈍く」なっているからです。

心は「鈍く」なると「暗く」なります。そうすると、今まで「はっきり」見えていたものまで見えなくなるのです。

心が鈍くなる理由をパウロは二つ上げています。

ローマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

一つ目は「神を神としてあがめないこと」です。直訳すると「神に神としての栄光を帰さず」です。

誰であろうと「神に栄光を帰さない」ならば、必ず「心が鈍く」なります。

二つ目は「感謝しない」と言うことです。「感謝の心」を失うとき、私たちの「心は鈍く」なるのです。

もし、思いが「混乱」したり「導きがわからなく」なったりするのなら、立ち止まって自分の心を点検する必要があります。

「自分の知恵」「自分の力」に頼っていないだろうか。自分の中に「おごり高ぶり」はないだろうか。

主以外の何か、誰かに依存してはいないだろうか。私は、神に栄光を帰しているだろうか。

私の「口」は感謝を告白しているだろうか。それとも「不平不満」を溢れさせているだろうか。

箴言3:6
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。

「主を知れ」とは、以前の新改訳では「主を認めよ」と訳されていました。

日々の歩みの中で「神に栄光を帰すこと」「感謝をささげること」こそ「主を認めること」です。

「神に栄光を帰し」「感謝をささげる」ならば、私から「混乱」は去ります。進むべき道がはっきりと見えるようになります。

神に栄光を帰しましょう。すべてにおいて「神の御力」を認めましょう。

感謝を告白しましょう。思っているだけでなく「口から」感謝を溢れさせるのです。

そうすれば「主があなたの進む道をまっすぐにされる」でしょう。

すべての栄光は、主のものです
すべての創造主をあがめます
どんな時も、いつでも、主に感謝をささげます