No.199 スマートに生きるより純真に生きたいのです

すずらん

ヤコブ3:13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

知恵には二種類あるようです

ヤコブ3:14~15
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのをやめなさい。
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。

「知恵」には二種類あると聖書は言います。

まず第一に「上から来た知恵」です。これは、移り変わることのない御父から来ます。もう一つは「地上の知恵」です。ヤコブは、これを「肉的で悪魔的なもの」と呼んでいます。

ヤコブ3:16
ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

私たちは「どちらの知恵」によって歩んでいるでしょうか。

教会の中に「地上の知恵」が横行しているとするならば、それは非常に悲しい事です。

もし「苦々しいねたみ」「利己的な思い」が心の中にあるなら、私たちの「知恵」は「地上の知恵」です。

どれだけ見た感じが立派であっても、順調にプログラムをこなしていても、それらは「肉的で悪魔的なもの」と呼ばれます。

どれだけ熱心に奉仕をしていても、そこに「苦々しいねたみや利己的な思い」があるなら、そこに「上からの知恵」はありません。

「利己的な思い」とは、以前の新改訳では「敵対心」と訳されています。

聖徒の集まりの中で「敵対心」など起こり得るのでしょうか?

これは、残念ながら起こり得てしまうのですね。サタンは、聖徒の仲を悪くさせるのが得意なのです。

ヤコブ3:17(新改訳第2版)
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、みせかけのないものです。

上からの知恵は第一に「純真」です。新改訳2017では「清いもの」と訳されています。

広辞苑(第7版)には「純真とは、邪念や私欲のないこと」と記されています。

みせかけなく「純真」な心で生きるなら、そこには「敵対心」は生まれません。

ヤコブは「生き方を示せ」と言います。

ヤコブ3:13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

上からの知恵にふさわしいのは「柔和な行い」です。もし自分こそ「知恵ある者」だと自慢するならば「柔和な行い」をせよとヤコブは言っているのです。

「柔和な行い」と「世の中の知恵」とは、かけ離れて見えるものです。

世の中においては「知恵」ある生き方とは、スマートな生き方のことでしょう。賢く立ち回ることができる人のことを「知恵ある人」と呼ぶのです。

しかし、主の御前に「知恵のある人」とは「柔和な行い」をする人のことなのです。

私たちは「上からの知恵」を求めましょう。

ゼカリヤ12:9
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乘って、
雌ろばの子である、ろばに乘って。

私たちの王、義なる方、主イエスは見栄えの良い戦車や軍馬でエルサレムに入城されませんでした。イエス様は柔和でへりくだってロバの子に乘られるのです。

私たちは聖霊に導かれて「柔和でロバの子に乘られた方」のように歩むことを切に求めましょう。

そうすれば、そこにはおのずと「義の実を結ばせる種」が蒔かれるのです。

私は上からの知恵を求めます
純真な心をお与えください
聖霊様の導きを求めます