Ⅰペテロ1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれど信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
栄えに満ちた喜びに踊っています
使徒ペテロからすれば、私たちは「見ずに信じる幸いな者」なのです。
使徒ペテロたちは「主イエスの目撃者」です。私たちは、彼らの伝えてくれたことを信じて救われたのです。私は、イエス様を「見ないで」信じました。きっと、あなたもそうでしょう。
「見ないで信じる人たち」とは、あなたと私のことです。イエス様がはっきりと言ってくださいました。私たちは「幸い」なのです。
ある先生が言いました。
「この中に、自分は救われているかどうか分からない、そんな喜びを感じたことはないと思っておられる方はいますか。安心してください。大丈夫です。そのような人は、救われていません。」
私は、そのメッセージを聞いてひっくり返りそうになりました。びっくりしすぎて笑ってしまいました。よくもまあ、そんなことを大声で言えるなと思いました。確かに、主にある聖徒は「救いの喜びに輝く」ものです。私も、こんなふうに「忖度なし」に御言葉を伝えたいと思ったことを覚えています。
私は「喜び」が失われたなら「救いも失う」とは思いません。もちろん、あの先生もそのような意味で言ったのではありません。
「栄えに満ちた喜び」は「救いの確証の一つ」です。
そしてまた「栄えに満ちた喜び」は、信仰の歩みを強くするとも思います。
自分が「どこにいるのか分からない」まま歩むのは辛いことでしょう。「嬉しくもなんともないけれど歩かなければならない」と思って進むのはかなり強固な意志が必要ですよね。
「見ないで」信じる私たちに、主は「証印」を与えてくださいました。
私たちは「約束の聖霊」によって証印を押されました。聖霊様こそ「私たちが御国を受け継ぐことの保証」です。
「聖霊の証印」が押されたことは「わかる」ものです。それはただの「感情」ではない「喜び」によって確認できます。つまり「理由はないけど、なんだか嬉しい」という心の状態です。
私は、うちに聖霊様がおられる最大の証拠は「喜び」であると思います。
聖霊様がうちに来られると「神の国」が私たちの心に訪れます。神の国は「義と平和と喜びの国」です。
リック・ジョイナーという預言者は言いました。
「終わりの時代、神の民は『大丈夫なのか?』と思われるほど喜びにあふれるようになる」と。
デレク・プリンスという聖書教師も言いました。
「神の民は『楽観主義』だと言われるでしょう」と。
終わりの時代、世界が暗いニュースで満ちているとき、神の民は「お気楽」で「楽観的」に見えるのです。それは、現実から逃げて「空想の世界」に浸るからではありません。
神の聖徒のうちには「喜び」が与えらているからなのです。
何がそんなにうれしいの?
聞かれたら困るけど
という賛美の歌がありますが、まさにそういう状態になります。私たちは理由がなくても「喜び」を持つことができるのです。
もとろん、一時的には喜べないこともあるでしょう。問題が発生して喜びが盗まれてしまうこともあるでしょう。
しかし「喜び」は決して消えません。私たちから聖霊様が去って行かれない限り「喜び」はうちから溢れ流れ出て来ます。
もしあなたが「栄えに満ちた喜び」を味わえていないなら、何よりもまず「聖霊様」を求めてください。
私たちの喜びは「どこにいても」「何をしていても」わきあがるものです。
「何がそんなにうれしいの」かと自分でも不思議なほどの喜びが私たちのうちにはあふれるのです。
あなたが「ことばに尽くせない喜び」に踊りますように。そして、どこに行っても、何をしていても「何がそんなに嬉しいの?」と聞かれるようになりますように。
聖霊様の証印を感謝します
私のうちには喜びがあふれます
私のうちの喜びは流れて人々を潤します