【詩篇17:15】
しかし私は 義のうちに御顔を仰ぎ見 目覚めるとき 御姿に満ち足りるでしょう
ダビデは助け出してくださいと祈りました
ダビデには敵がいました。
いのちを狙う敵も多かったでしょうが、罠にかけて失脚させようとする人々も多かったようです。
ダビデは敵に対してこのように言います。
ダビデの敵は「悪しき者」で「貪欲」でした。
「鈍い心」で「高慢」でした。
しかし、彼らはこの世の物を上手に用いて満ち足りていました。
彼らは満ち足りているように見えます。飢えることも渇くこともありません。彼らの家族は満腹です。その子孫に財産を残せるほどに裕福です。
それらは、すべて、主がこの地に蓄えられたものです。彼らは、主のしもべではないけれど、主の蓄えられた物で満ち足りているのです。主は、地上において彼らが満ち足りることを許されているのです。
ダビデは、彼らが満ち足りていることについて、何も不平をつぶやいてはいません。
彼らが「この世」でどのように生きていようとダビデには関係がないからです。
ただ「相続分が地上のいのちであるこの世の人々から 私のたましいを助け出してください」と願っています。
「この世」は、ゴールではありません。私たちの相続分は「この世」ではありません。
「この世」の仲間入りをする必要はありません。「この世の相続分」を満喫している人々をうらやむことはありません。
私たちは、彼らと張り合う必要はないのです。
ダビデは、自分の「たましいを助け出してください」と祈っています。「いのち」が危うかったのではなく「たましい」つまり「心」が危うかったのです。
私たちも、「この世の相続分」に目を留めているなら「たましいの危機」を招くでしょう。
ダビデは「この世の相続分」を見ませんでした。
ダビデは「義のうちに主の御顔を仰ぎ見」ました。そして、主の御姿に満ち足りたのです。
私たちも「義」のうちに御顔を仰ぎ見ます。
素晴らしいですね。これは毎朝の私の理想です。私は、目覚めるとき「主の御姿」に満ち足りたいのです。
「義のうちに御顔を仰ぎ見」ることは、「神の国とその義を求める」ことに通じます。
ダビデは、「地上の相続分」を貪欲に集めませんでしたが、王となって富みました。神殿の資材を数えきれないぐらい集めることができました。
私たちも「自分のたましい」が救い出されるように祈りましょう。
「この世の相続分」を必死になって、あくせく集めてしまいそうになることから助け出していただきましょう。
私たちは「義のうちに主の御顔を仰ぎ見」ます。主は、私たちが「この世の相続分」に目を奪われないことを望んでおられます。
神の国とその義を求めるなら、これらのものはすべて、それに加えて与えられるのです。
しかし、覚えてください。
最もよいものは、朝毎に「御姿に満ち足りる」ことです。
それは、どんなものより素晴らしい満足をもたらします。
私は、主の御顔を仰ぎ見ます。
私の相続分は「この世のもの」ではありません。
私は、主の御姿に満ち足ります。