Ⅰコリント1:17
キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音をことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
それは本質的なことではないのです
コリントの教会の人々は「本質的なこと」を見失っていました。
彼らは「分派」を作っていました。そして、それぞれ「祭り上げた自分たちのリーダー」を誇っていました。
おそらく一番多かったのが「誰からバプテスマを受けたか」という自慢であったのでしょう。
「私はペテロから」「私はアポロから」などと言い合っていたのかもしれません。もちろん、彼らの気持ちは理解できます。私は、大好きな私の牧師から洗礼を授けられたことを、今でもとても嬉しく思っています。
しかし、パウロは言うのです。
最も大切なことは「誰からバプテスマを受けるかではない」のです。
そもそも「私はバプテスマを授けるために遣わされたのではないのだ」とパウロは言います。
パウロが遣わされたのは「福音を宣べ伝えるため」です。
それも「言葉の知恵によらずに宣べ伝えるため」です。
それはすべて「キリストの十字架が空しくならないため」です。
「空しく」とは「空にする」と言う意味です。つまり「無価値にする」「意味のないものにする」と言うことです。
私たちは、この意味をよくよく考える必要があります。
多くの「大切なこと」を教会は持っています。私たちには大切にしていることが「山ほど」ありますね。
しかし、誤解を恐れずあえて言いますが、「バプテスマ」でさえ「キリストの十字架を空しく」することがあるならば、その他の「大切なこと」には、いったいどれほどの価値があるのでしょう?
私たちのうちで起こる「争い」のほとんどは「本質的なこと」が原因ではないのです。
この世界には「大切なことだけれど、本質的なことではない」というものが多くあります。
「本質的なもの」つまり「キリストの十字架」から目を離してはなりません。
「キリストの十字架」を空しくするもの、つまり、キリストの十字架の価値を損なうものからは遠ざかりなさい。
それが「巧みなことば」であっても、それでキリストの十字架が空しくなるなら捨てるのです。
それが「どれほど大切なこと」のように思えても、キリストの十字架を空しくするなら「思ったよりも大切なことではない」のです。
最も大切なことは「一つだけ」なのです。
主よ、十字架の御業を感謝します
私は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます
私は、よみがえられたキリストを見上げます

