No.79 その知らせは無視します

ヘッドホンした子ども

マルコ5:36
イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、たた信じていなさい。」

主はそばで聞かれていました

マルコ5:35
イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」

マルコ5:36
イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、たた信じていなさい。」

主はその報告(知らせ)を無視されました。

「そばで」とは、別訳では「無視して」です。

「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」と使いの者は言いました。

つまり、もうイエス様に来ていただく必要はなくなったということです。すべてが遅すぎたのです。すべてが終わったのです。

恐れていたことが起こってしまいました。ヤイロの心にはさまざまな思いがよぎったでしょう。

もう少し早く家を出ていれば…

イエス様があそこで長血の女性の癒しに時間を使わなければ…

しかし、もう、誰に何を言っても遅いのです。終わってしまったことに変わりはありません。

ヤイロは足元から崩れ落ちるような気がしたでしょう。絶望とはこういうことを言うのです。

しかし、その時、主は言われました。

「恐れないで、ただ信じていなさい」

そこには、信じるに足る要素は何もありませんでした。

「病ならなんとかなるかもしれないけれど、娘はもう遅い…」

そう思っても仕方のない状況でした。

しかし、ヤイロはイエス様を自分の家に連れて行きました。それは、彼が信じた証拠です。

マルコ5:40
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に追い出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。

人々はイエス様をあざ笑いました。ヤイロは、そのイエス様と一緒に娘の部屋に入ったのです。

そして、ヤイロは娘が起き上がるところを見たのです。

「恐れないで、ただ信じなさい」

イエス様が、そう言われるなら、私たちは信じるのです。

その状況を見て、聞いて、絶望であると知ったとしても、イエス様が無視されるなら、私たちも無視するのです。

あざ笑う者の声が聞こえてきても無視するのです。そして、イエス様とともに行くのです。

主の御声を聞きましょう。

自分勝手な思い込みでは駄目です。盲信でも駄目です。

しかし、ひとたび、主が「信じなさい」と言われたら、何が起こっても、誰に何と言われても、自分の心がどう感じても、ただ信じるのです。

私たちは、主が無視されるものを見る必要はありません。主が無視される知らせを聞く必要はありません。

私たちは、ただ信じていればよいのです。

ヨハネ11:40
イエスは彼女に言われた。「信じるなら、神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

私はイエス様を信じます。
信じて神の栄光を見ます。