マルコ5:36
イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、たた信じていなさい。」
主はそばで聞かれていました
主はその報告(知らせ)を無視されました。
「そばで」とは、別訳では「無視して」です。
「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」と使いの者は言いました。
つまり、もうイエス様に来ていただく必要はなくなったということです。すべてが遅すぎたのです。すべてが終わったのです。
恐れていたことが起こってしまいました。ヤイロの心にはさまざまな思いがよぎったでしょう。
もう少し早く家を出ていれば…
イエス様があそこで長血の女性の癒しに時間を使わなければ…
しかし、もう、誰に何を言っても遅いのです。終わってしまったことに変わりはありません。
ヤイロは足元から崩れ落ちるような気がしたでしょう。絶望とはこういうことを言うのです。
しかし、その時、主は言われました。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
そこには、信じるに足る要素は何もありませんでした。
「病ならなんとかなるかもしれないけれど、娘はもう遅い…」
そう思っても仕方のない状況でした。
しかし、ヤイロはイエス様を自分の家に連れて行きました。それは、彼が信じた証拠です。
人々はイエス様をあざ笑いました。ヤイロは、そのイエス様と一緒に娘の部屋に入ったのです。
そして、ヤイロは娘が起き上がるところを見たのです。
「恐れないで、ただ信じなさい」
イエス様が、そう言われるなら、私たちは信じるのです。
その状況を見て、聞いて、絶望であると知ったとしても、イエス様が無視されるなら、私たちも無視するのです。
あざ笑う者の声が聞こえてきても無視するのです。そして、イエス様とともに行くのです。
主の御声を聞きましょう。
自分勝手な思い込みでは駄目です。盲信でも駄目です。
しかし、ひとたび、主が「信じなさい」と言われたら、何が起こっても、誰に何と言われても、自分の心がどう感じても、ただ信じるのです。
私たちは、主が無視されるものを見る必要はありません。主が無視される知らせを聞く必要はありません。
私たちは、ただ信じていればよいのです。
私はイエス様を信じます。
信じて神の栄光を見ます。