No.193 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように

アイベックス

詩篇42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいはあなたを慕いあえぎます

この詩篇の表題は「コラ人のためのマスキール」ですが、おそらく作者は「ダビデ」であろうと言われます。ダビデがアブシャロムに追われていた時の詩篇だと考えられます。

ダビデの心は、激しく神を求めていました。

詩篇42:2
私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています。いつになれば 私は行って 神の御前に出られるのでしょうか。

ダビデは切実な思いで、主を求めているのです。

イスラエルの荒野では「水」は重要です。イスラエル旅行をするとガイドさんたちはみな、しつこいほどに「喉が渇いた感じがしなくても水を飲め」と言うようです。そして乾燥地の恐ろしさを口を酸っぱくして説明すると言います。

そんな「喉が渇いていなくても水を飲め」としつこく言われるような地で、この詩篇に登場する「鹿」はすでに渇いていて「あえいで」いるのです。

この「鹿」は、今すぐにでも「水」を飲まなければ「いのち」が危ないのです。

ダビデは、そのように必死で水を求める鹿の姿に自分を重ねているのです。

詩篇42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

つまり、「死ぬほどに神を慕い求めている」「神に満たされなければ生きられない」と言っているのです。

ダビデは、アブシャロムに追われる身で「神の家」に上ることができないでいます。

詩篇42:4
私は自分のうちで思い起こし 私のたましいを注ぎだしています。私が祭りを祝う群衆とともに 喜びと感謝の声をあげて あの群れと一緒に 神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

ダビデは、もう一度、みなで神の家に上りたいのです。

しかし、この状況では、それもかないません。それで「いつになれば」と嘆いているのです。

ダビデは、自分で「たましい」に答えを言い聞かせます。

詩篇42:11
わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ 私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を。

「神しかいない」のです。ダビデにとって「救い」は「私の神」だけなのです。

ゆえに「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」主を切に慕い求めているのです。

私たちの「たましい」は何を求めているでしょう。何によって満たされようとしているでしょう。。

私は「うなだれている」私の「たましい」に言います。

「私のたましいよ、ただ主からの水を求めよ。おまえの渇きは生ける水でしか満たされないのだ」と。

ヨハネ7:37
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになります。

私たちは、」イエス様のもとに行きましょう。その「渇き」は「生ける水」以外では満たされません。私は、切実な思いで求めます。

私たちは、切に切にダビデのように求めましょう。

主よ、私はダビデのように求めます
切に聖霊様を求めます
御霊が生ける水としてあふれ流れてください