詩篇42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいはあなたを慕いあえぎます
この詩篇の表題は「コラ人のためのマスキール」ですが、おそらく作者は「ダビデ」であろうと言われます。ダビデがアブシャロムに追われていた時の詩篇だと考えられます。
ダビデの心は、激しく神を求めていました。
ダビデは切実な思いで、主を求めているのです。
イスラエルの荒野では「水」は重要です。イスラエル旅行をするとガイドさんたちはみな、しつこいほどに「喉が渇いた感じがしなくても水を飲め」と言うようです。そして乾燥地の恐ろしさを口を酸っぱくして説明すると言います。
そんな「喉が渇いていなくても水を飲め」としつこく言われるような地で、この詩篇に登場する「鹿」はすでに渇いていて「あえいで」いるのです。
この「鹿」は、今すぐにでも「水」を飲まなければ「いのち」が危ないのです。
ダビデは、そのように必死で水を求める鹿の姿に自分を重ねているのです。
つまり、「死ぬほどに神を慕い求めている」「神に満たされなければ生きられない」と言っているのです。
ダビデは、アブシャロムに追われる身で「神の家」に上ることができないでいます。
ダビデは、もう一度、みなで神の家に上りたいのです。
しかし、この状況では、それもかないません。それで「いつになれば」と嘆いているのです。
ダビデは、自分で「たましい」に答えを言い聞かせます。
「神しかいない」のです。ダビデにとって「救い」は「私の神」だけなのです。
ゆえに「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」主を切に慕い求めているのです。
私たちの「たましい」は何を求めているでしょう。何によって満たされようとしているでしょう。。
私は「うなだれている」私の「たましい」に言います。
「私のたましいよ、ただ主からの水を求めよ。おまえの渇きは生ける水でしか満たされないのだ」と。
私たちは、」イエス様のもとに行きましょう。その「渇き」は「生ける水」以外では満たされません。私は、切実な思いで求めます。
私たちは、切に切にダビデのように求めましょう。
主よ、私はダビデのように求めます
切に聖霊様を求めます
御霊が生ける水としてあふれ流れてください