No.345 私が見捨てられることは決してありません

憂いのある猫

イザヤ49:16
見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

主は、私を刻まれました

イザヤ49:14
しかし、シオンは言った、「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」

「見捨てられた」という思いは、人の受ける傷の中で最も「癒しがたい」という人がいます。

「最も」かどうかは分かりませんが「拒絶」されたという傷は「なかなか完治しない」と私も思います。

幼いころ受けた「拒絶の傷」が、大人になっても癒えず「見捨てられる恐怖」に怯えている聖徒もいるだろうと思います。

そのような聖徒は、何か問題が起こると「自分が御心にかなわないから、このようなことが起こるのだ」と考えます。

「自分が汚れているから」

「自分が道を誤ったから」

「自分が失敗したから」

「自分」が、主の御旨にかなう生き方ができていないので「見捨てられた」「見離された」と思うのです。

気持ちは分かります。私も、同じように感じることがありますから。

しかし、どうか覚えてください。

「見捨てない」「忘れない」という約束は、常に「神」の方からの宣言だということを。「主語」はいつも「神」なのです。「私が」何であるかは関係がないのです。

イザヤ49:15
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

主は「わたしは」あなたを忘れないと言われます。たとえ誰があなたを忘れようとも「このわたし」は忘れないと宣言されるのです。

イザヤ49:16
見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

誰が「手のひらに刻んだ」のでしょう。あなたは「自分」を刻むことはできません。「刻まれた」のは「主」です。

主は「わたしは」あなたを手のひらに刻んだと言われます。主は常に「あなた」を見つめ、また「あなた」を握りしめておられます。

私たちのイエス様は「拒絶」を経験されました。完全に「見捨てられ」ました。イエス様は「罪」となられたので、御父は顔を背けられました。

イザヤ59:2
むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

「罪」となられたイエス様から、御父は顔を隠されました。

「罪」となられたイエス様を御父は「拒絶」されたのです。

イエス様は「見捨てられ」「拒絶」される痛みを知っておられます。

誰も何もわかってくれないという痛みを知っておられます。

誤解される苦しみも、裏切られる悲しみも、愛する人に捨てられる痛みも、すべて経験してくださいました。

十字架は「解決の場所」です。イエス様が「拒絶」されたので、私たちは「拒絶」されません。

十字架を見なさい。主があなたの「拒絶」を持って死なれたことを信じなさい。

イエス様が「傷」を受けられたので、私たちは「傷」を受けません。

イエス様が「御父」に顔を背けられたので、私たちは決して「御顔」を背けられることがないのです。

イエス様の「手」には傷があります。主は、そこに「私」を見ておられます。「あなた」を見ておられます。

「わたしが、この傷を負ったのは、もう二度とあなたが傷つかないためだよ」とイエス様は言われます。

あなたの「傷」は癒されます。あなたは「見捨てられる恐怖」から、すでに解放されています。

誰も何も、主の愛からあなたを離すものはありません。

あなたの「失敗」も、主からあなたを離すことはできません。あなたは「罪」ではないので、主はあなたから御顔を隠されません。

どんな被造物も、あなた自身でさえも「神の愛」からあなたを引き離すことなどできないのです。

イエス様の十字架を感謝します
私は「見捨てられたもの」ではありません
キリスト・イエスにある神の愛から私を引き離すものは何もありません