イザヤ49:16
見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
主は、私を刻まれました
「見捨てられた」という思いは、人の受ける傷の中で最も「癒しがたい」という人がいます。
「最も」かどうかは分かりませんが「拒絶」されたという傷は「なかなか完治しない」と私も思います。
幼いころ受けた「拒絶の傷」が、大人になっても癒えず「見捨てられる恐怖」に怯えている聖徒もいるだろうと思います。
そのような聖徒は、何か問題が起こると「自分が御心にかなわないから、このようなことが起こるのだ」と考えます。
「自分が汚れているから」
「自分が道を誤ったから」
「自分が失敗したから」
「自分」が、主の御旨にかなう生き方ができていないので「見捨てられた」「見離された」と思うのです。
気持ちは分かります。私も、同じように感じることがありますから。
しかし、どうか覚えてください。
「見捨てない」「忘れない」という約束は、常に「神」の方からの宣言だということを。「主語」はいつも「神」なのです。「私が」何であるかは関係がないのです。
主は「わたしは」あなたを忘れないと言われます。たとえ誰があなたを忘れようとも「このわたし」は忘れないと宣言されるのです。
誰が「手のひらに刻んだ」のでしょう。あなたは「自分」を刻むことはできません。「刻まれた」のは「主」です。
主は「わたしは」あなたを手のひらに刻んだと言われます。主は常に「あなた」を見つめ、また「あなた」を握りしめておられます。
私たちのイエス様は「拒絶」を経験されました。完全に「見捨てられ」ました。イエス様は「罪」となられたので、御父は顔を背けられました。
「罪」となられたイエス様から、御父は顔を隠されました。
「罪」となられたイエス様を御父は「拒絶」されたのです。
イエス様は「見捨てられ」「拒絶」される痛みを知っておられます。
誰も何もわかってくれないという痛みを知っておられます。
誤解される苦しみも、裏切られる悲しみも、愛する人に捨てられる痛みも、すべて経験してくださいました。
十字架は「解決の場所」です。イエス様が「拒絶」されたので、私たちは「拒絶」されません。
十字架を見なさい。主があなたの「拒絶」を持って死なれたことを信じなさい。
イエス様が「傷」を受けられたので、私たちは「傷」を受けません。
イエス様が「御父」に顔を背けられたので、私たちは決して「御顔」を背けられることがないのです。
イエス様の「手」には傷があります。主は、そこに「私」を見ておられます。「あなた」を見ておられます。
「わたしが、この傷を負ったのは、もう二度とあなたが傷つかないためだよ」とイエス様は言われます。
あなたの「傷」は癒されます。あなたは「見捨てられる恐怖」から、すでに解放されています。
誰も何も、主の愛からあなたを離すものはありません。
あなたの「失敗」も、主からあなたを離すことはできません。あなたは「罪」ではないので、主はあなたから御顔を隠されません。
どんな被造物も、あなた自身でさえも「神の愛」からあなたを引き離すことなどできないのです。
イエス様の十字架を感謝します
私は「見捨てられたもの」ではありません
キリスト・イエスにある神の愛から私を引き離すものは何もありません