ヨハネ4:21
イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝するときが来ます。
あなたは求められているのです
このサマリアの女性は、おそらく、自分でも気がつかない思いを持っていたのです。
彼女は、それを間違ったところに求めて生きてきました。五回も結婚しましたが、誰も彼女に「求めるもの」を与えてはくれませんでした。
今日は、ただ「飲み水」を求めて井戸に来たのです。彼女は、今は、ただ「暮らして」いるだけです。
自分でも、自分が「何か」を求めていることに気がついていませんでした。しかし、この井戸で出会った不思議な人と会話をしているうちに、自分の心から「何か」湧きあがって来るものがあったのです。
イエス様は、サマリアの女と呼ばれる女性に言われました。
「女の人よ、わたしを信じなさい」
これは、とても直接的なおことばですね。
彼女は「それ」が何かはっきりとは分かっていませんでした。けれど、今、イエス様に言われて、彼女はその「何か」に気づきます。
イエス様は続けて言われました。
これは「招き」です。
五回も結婚して、それでも何も得られなかった自分…
今は、結婚という形式もなく、ただ暮らしているだけ…
恐らく彼女は、自分のことを「恥ずかしい」と感じていたでしょう。世間には認められない生き方だとも思っていたでしょう。
誰も理解してくれないし、自分でも自分を肯定することができない…
けれど、今、耳を疑うようなことを、この不思議な人が言ったのです。
「父は、礼拝者を求めている。あなたは、父の求めている礼拝者なのだ」
この山かエルサレムか、などということはどうでもいいのです。
あなたが、歌えるのか、楽器が弾けるのか、聖書を暗記してるのか、そのようなことも関係ありません。
もっと言えば、主は「賛美のことば」や「礼拝の雰囲気」を必要とはしておられません。
主が「求めておられる」のは「礼拝者」です。つまり、「あなた自身」です。
サマリアの女性は、自分が「求められている」ことを知りました。自分でさえ、自分を受け入れられないのに、そのような自分を「求めている方」がいらっしゃることを知ったのです。
そして、それこそ彼女の「求めていたこと」でした。自分を「認め、求めてくれる存在」を彼女は欲していたのです。
「信じられない」と彼女は思ったでしょう。
しかし、今しがた、彼がはっきり言ったことをこの耳が聞いています。
「女の人よ、わたしを信じなさい」
彼女は、イエス様を信じました。「水がめ」を置いて走って行きました。「暮らし」の必要を忘れさせるものに出会ったからです。
あなたは、イエス様を信じますか?
主の言われたことを信じますか?
「父は、礼拝者を求めて」おられるのです。
そして、その礼拝者とは「あなた」です。主は、何にもまして「あなた」を求めておられます。
あなたは、主の招きに応じますか?
「水がめ」を置きなさい。「暮らし」の必要は忘れなさい。
今が、その時です。
主が、私を求めてくださることを信じます
私は礼拝者として生きます
私の存在を認め、求めてくださる方を賛美します

