No.457 「うらやましい」を育てると「暮らし向きの自慢」になります

家と湖

Ⅰヨハネ2:16
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

それは「うらやましい」と思う心です

「暮らし向きの自慢」とは何でしょう?

「肉の欲」「目の欲」と比べると、それは何だか「些細なこと」のように思えます。

「暮らし向きの自慢」とは「生活のほら話」「財産の自慢」「人生の誇示」などとも訳せます。

主にある聖徒は「肉の欲」「目の欲」を避けようと努力するだろうと思います。負けてしまうことはあるかもしれませんが、極力、遠ざけようと思うでしょう。

しかし「暮らし向きの自慢」はどうでしょう。私たちは「暮らし向きの自慢」に引っ張られてはいないでしょうか。

「自慢」とは、直訳すると「ほら話」です。つまり「ありもしないこと」を「あるかのように」話すことです。

アナニヤとサッピラは「暮らし向きの自慢」に囚われてしまった人たちです。

使徒5:3~4
するとペテロは言った。「アナニヤ。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったのではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

恐ろしい言われ方ですね。本当に怖いです。

ペテロは「どうして、このようなことを企んだのか」とアナニヤに問うています。

答えは一つですね。彼らは「見栄を張りたかった」のです。

バルナバが、畑を売って、その代金を献げたので、自分たちも真似をしたのです。

おそらく、バルナバの行為は「称賛」されたのでしょう。アナニヤとサッピラは、自分たちも同じように「称賛」を受けたかったのだと思います。

ただ「自慢したかっただけ」なのです。ただ「褒められたかった」のです。

「すごいな」「素晴らしい夫妻だ」「聖徒の鏡だ」などと言われてみたかったのです。

それは「些細なこと」でした。ただバルナバを「うらやましいな」と思っただけなのです。しかし、アナニヤとサッピラは「その欲」を育ててしまいました。サタンが後押ししたのです。

そうして、「ほら話」を企てさせました。その「ほら話」は実行され、彼らの思っても見なかった結果を招いたのです。サタンは「夢」を見させます。それは「楽しい空想」です。しかし、それが実現した時、そこに待っているのは「滅び」です。

「自分の価値」を「他人」を通して見るのはやめましょう。「自分の価値」を「自分」で量ることもやめましょう。

それが「暮らし向きの自慢」を招くのです。それは「世」というフィルターを通してやって来るのです。サタンは、あなたの「世に対する憧れ」「うらやましく思う心」を後押ししてきます。

それは、最初「些細な欲」として心に入ってくるのです。その「些細な欲」を育ててはいけません。

私たちは「神から出る」ものにだけ目を留めます。

私たちは、ただイエス様だけを見上げます。主の御前には「楽しみが満ちあふれている」ことを覚えてください。

そうすれば「世の宝」「富」「人のほめる言葉」で心を満たそうとすることはなくなります。

世の楽しみよ 去れ
世の誉れよ 行け
キリストにはかえられません。世の何ものも。