創世記13:11
ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へと移動した。こうして彼らは互いに別れた。
ロトはヨルダンの低地を選びました
ロトは「ヨルダンの低地全体」を選びました。そこは「よく潤っていた」からです。
ロトの選んだ地は「主の園」のように「エジプトの地」のように潤っていたと聖書は言います。
面白い書き方だなぁと思うのです。
「エデンの園」のような場所であれば、おそらく「みこころ」だろうと思ってしまいますよね。
しかし、そこは「エジプトのよう」でもあったのです。となると、いくら潤っていても「この世の友」にはなれないし「みこころ」ではないのかもしれないなと思います。
ロトが、どのように考えたのかは分かりませんが、もし、私であれば「主の園のような」「エジプトの地のような」場所を見つめて途方に暮れてしまったでしょう。
私たちは、ロトの話の結末を知っています。ロトは、結局「ソドム」に住むようになります。そして、主は「ソドム」を滅ぼされるのです。
アブラムとロトの最も大きな違いは「選ぶもの」の違いです。
そもそもアブラムは「どこに行くのか」を問題にはしていません。ロトに選ばせたのは「どちらでもよかった」からです。右でも左でも「カナンの地」であれば良かったのです。
ロトは「潤った地」「素晴らしい地」を選びました。つまり、彼の目は「土地」に向けられていたのです。
ロトは「自分のために」最も良いと思われる「土地」を選びました。
アブラムは「約束のために」最も良い方である「主」を選びました。
「主の園のような」「エジプトの地のような」ものを見つめるのはやめなさい。それは、あなたの「決断」を鈍らせます。
「物と事」に目を受けている限り、私たちの目は惑わされ続けます。「物と事」を見つめ続けるなら、決断した後もずっと「この決断は正しかったのかしら」と迷い続けることになるでしょう。
ロトが選ぶべきは「主ご自身」であったのです。大切なことは「どこに行くか」ではなく「誰と行くか」なのです。いくら「潤った地」であっても、そこに「主ご自身」がおられないならば確実に滅びます。
導きを求めるときには「物と事」から、まず目を離すのです。
そして、ただ「主ご自身」に目を向けるのです。
「主よ、私はあなたご自身を選びます。何かでも誰かでもなく、ただ主ご自身を求めます。みこころにお導き下さい」と申し上げればよいのです。
私たちは、信仰の父であるアブラハムの道を歩みましょう。
「約束」を見つめ「主ご自身」を選んで歩みましょう。
主よ、私はあなたを選びます
主の約束を見つめます
主の道を歩ませてください

