創世記22:7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「なんだ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
「ここにいるよ」と答えられます
イサクは、本当に不思議であったのだろうと思います。それとも、もしかすると薄々気がついていたのでしょうか。確かに、アブラハムの様子は普段とは違うものだったでしょう。
「何だ、わが子よ」とは、直訳すると「ここにいるよ、わが子よ」です。
この親子のやりとりを思うとき、なんだか泣きそうな気持になります。
イエス様もこのように御父と会話をしながら、この地を歩かれたのだろうなと思うのです。
イエス様が「アバ父よ」と呼ばれると、御父は「ここにいるよ、愛するわが子よ」と答えられたのでしょう。
その麗しい関係が十字架上で途絶えます。主イエスは御父に拒絶されるのです。
イエス様は「罪とされた」のです。聖なる御父は「罪とされた」イエス様から目を背けられました。
罪は「神との断絶」を生みます。罪は「神の御顔を隠させ」るのです。
イエス様は、私たちのために「罪とされ」ました。ゆえに、御父は「御顔を隠され」たのです。
御顔を背けられたとき、イエス様の心が張り裂けたのだと言われます。イエス様の直接の死因はショック死であったという説もあります。
愛する父が、その手に刃物を取ったとき、イサクの心も張り裂けそうになったのかもしれません。イサクの心に満ちた思いが恐怖であったのか、悲しみであったのか、それとも、諦めであったのか、私には想像もできません。
イエス様が「拒絶」を経験してくださったのは、私たちが「拒絶」されないためです。
イエス様の心が張り裂けたのは、私たちの心が張り裂けないためです。
イエス様が私たちの「すべての罪」を背負ってくださったので、私たちは「罪」とされることはありません。
「こういうわけで」と聖書が言うことを、しっかりと考えてください。
「こういうわけで」とは、つまり、イエス様が「罪とされて拒絶されたわけで」です。
イエス様が成し遂げてくださったことを、一つ一つ思い見ましょう。
イエス様が、御父との麗しい交わりを断ってくださったのは、私たちが「交わり」に加えられるためです。
あなたが「アバ父よ」と呼びかけたなら、御父は「ここにいるよ、わが子よ」と答えてくださいます。
あなたは、決して拒絶されることはありません。
イエス様の十字架を感謝します
私のために罪を背負ってくださったことを感謝します
私は三位一体の聖なる交わりに加えられています