ルカ8:5
種まく人が種まきに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
道端に落ちた種は悪魔が取り去ります
イエス様は「種まく人のたとえ話」のあとで言われました。
私たちは「聞き方」に注意しなければなりません。
種まく人の「種」は「神のみことば」であるとイエス様は言われました。
そして、蒔かれる土地とは「人々」のことです。
私たちは「神のみことば」をどのように聞くのか、どのように扱うのかということに注意を払わなければなりません。
なぜなら「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるから」です。
「神のみことば」には「いのち」がありますから「蒔かれれば」何らかの芽を出すものです。
しかし「道端」に落ちた種は芽を出すことはありません。4つの「土地」の中で、唯一「芽」を出さない場所なのです。
悪魔は「みことばの力」を私たちより信じているようです。
道端に落ちた種を「人は踏みつけ」ますが、悪魔は「取り去って」行きます。
放って置けば芽を出すかもしれないと思って、サッサと取り去ってしまうのです。
つまり悪魔は御言葉に対して「無関心」ではないということです。
主は、絶えず、毎日、私たちに語りかけておられると私は信じています。
どれほどの「種」が道端に落ち続けているのでしょう。毎日、どれほどの「みことば」を聞き逃しているでしょう。
私たちが御言葉に対して「無関心」であるならば、敵は「落ちた種」をすべて持ち去ってしまいます。
私たちは「神のことば」に、もっと注意を払いましょう。
「神のことば」とは「主イエス」のことなのです。
「いのちのことば」と呼ばれる方の「語りかけ」に無関心であってはなりません。
「神のことば」に対する無関心は「信仰」を奪います。
無関心は、サタンにみことばを取り去ることを容認しているのと同じです。
ローマの百人隊長は、イエス様に「ただ、おことばを下さい」と懇願しました。
彼は「みことばの権威」「みことばの力」を最大限に尊重しました。
「みことば」に対する態度は「信仰」と直結します。
「みことば」対する尊敬は、イエス様ご自身に対する敬意です。
ですから「聞き方に注意しなさい」
「みことば」に無関心であってはなりません。
私たちも、日々、百人隊長のように懇願しましょう。
「主よ、おことばを下さい」
私たちは、今日も「神のことば」によって生かされています。
主よ、おことばを下さい
あなたの御言葉こそ道の光です
あなたの御言葉こそ生きるすべてです