主の祈り② 御名が聖なるものとされますように

聖書と湖

マタイ6:9b
御名が聖なるものとされますように。

主の御名について思い巡らすことは素晴らしいことです

以前の新改訳でも口語訳でもこの箇所は「御名があがめられますように」と訳されていました。

新改訳2017では、多くの聖句において以前と訳され方が違いますが、この箇所もその一つです。

「あがめられますように」との祈りに慣れ親しんできた方にとっては少し違和感があるかもしれません。しかし「聖なるものとされますように」という訳は原語に忠実な訳であると思います。

ただ「あがめられますように」と祈るのが間違いであるとか、「聖なるものとされますように」と祈らなければいけないとか、そのようなことは決してありません。

どちらの言葉を使って祈りをささげても問題などありません。その言葉の意味することを理解して祈ればよいのです。

さて、前回紹介した本「1時間でも祈っていることができないのですか?」の著者ラリー師は、この箇所の「御名」に注目しておられます。

主の御名は主のご性質を表すとして様々な主の御名を掲げて祈るというやり方を教えてくれています。

「主は羊飼い」「主はご覧になる方」「主は正義」「主は癒し主」

主は、私たちに様々なご自身の「御名」を教えてくださっています。主のご性質は、一言では表せないので様々な「御名」によって教えてくださっているのです。

一つ一つの御名を掲げて、そのご性質に思い巡らせながら祈りをささげることは楽しいことです。素晴らしく恵まれます。ぜひ、主の御名に思いを巡らせながら祈ってください。私もまた、機会があれば「主の御名」についての学びができればいいなと思います。

しかし、今回は「御名」についてではなく「聖なる」ということに注目したいと思います。

聖なるものとされるとは?

「聖なるものとされますように」とは「聖別されますように」と訳すこともできます。

使徒13:2
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

この箇所のバルナバとサウロを「聖別して」に同じ語が使用されています。

ヨハネ17:17
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

そして、ここでイエス様が言われた「聖別」にもまた同じ語が使われています。以前の新改訳では「真理によって聖め別ってください」となっていました。

つまり「聖である」ことの一つの意味は「聖別」「聖め別つ」ということであると言えます。

「聖なる」という語は他にも「聖徒」とか「聖者」と訳されたりします。色々と考えていくのは楽しいけれど、今回は「聖別」という事について考えたい思います。

神の御名を聖別する

聖別とはごく簡単に言うとすれば「神様のために特別に取り分ける」ということです。

つまり「神様専用」と言っていいかもしれません。

バルナバとサウロのことを聖霊様は「わたしのために聖別して」と言われました。バルナバとサウロは「聖霊様専用」とされたのです。そして、聖霊様の任務に就いたのです。

では、「神の御名」を「聖別する」とはどういうことでしょう。

私はこれは単純に「神の御名」は「神専用である」ということの表明だと思います。

「神の御名」は「特別」であり「取り分けるべきもの」であるのです。つまり主なる神こそ「唯一の神」であるという宣言です。

難しいですね。どう伝えれば正解なのかよくわかりません。主は唯一の神であるだけでなく、最も麗しく、至上最高の方であると言いたいのです。けれど、それではまだ言葉が足りません。言葉では表せない思いを越えた方であるという宣言なのです。

私たちは「主の祈り」において「御名が聖なるものとされますように」と祈る時、「主は唯一の神であり、他のなにものとも比べ得るべき方ではない」と宣言しているのです。

私は「宣言」と言う言葉を使いましたが、これは「願い」というより「宣言」であると考えるからです。

デレク・プリンスという聖書教師は、「宣言」とは「攻撃的な告白」であると言いました。私はその言葉が好きです。「宣言」とは「攻撃的な告白」であるとまったく同意しています。

御名を聖別するとは、逆に言えば、その他の偶像と呼ばれるものすべてを打ち砕くということです。

エレミヤ10:11
「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

「主こそ唯一の神、至上最高の方」であることを霊的な世界を含む全世界に「宣言」するのです。

原語で「主の祈り」を祈りますと、かなり攻撃的だなと感じます。と言っても、私はほとんどギリシャ語など分からないのです。ただ「主の祈り」だけは神学校時代に暗記させられた(させていただいた)ので何となく諳んじることができるだけです。

「聖であれ! あなたの御名」直訳するとそのような感じでしょうか。つまり、命令形なのです。

ちなみに、昔、使用した教科書を参考にしますと、こうなります。

聖くされよ あなたの名
来たれ あなたの国
成れよ あなたの意

新約聖書ギリシャ語入門 片山 徹 著 キリスト教図書出版より

主の御名は「聖」であるべきなのです。神の国は来るべきなのです。主の御心は成るべきなのです。

私たちは日々、信仰をもってそのことを「宣言」せねばなりません。

「主の祈り」はただの「願い」ではないということがなんとなく分かりますね。

セラフィムの宣言に学ぶこと

イザヤはウジヤ王が死んだ年、高く上げられました。そして「主を見た」と言っています。そして、そこでセラフィムが呼び交わす声を聞きました。

イザヤ6:2~3
セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」

セラフィムがどのような存在であるのかはよく分かりません。

セラフィムは御使いの複数形であり、ケルビムや、ミカエルとは区別される。語源的には「燃える」という意味で、この六章以外では「燃える蛇」すなわち毒蛇を表わすのに用いられる。

人間イザヤとその預言 鍋谷堯爾 著 いのちのことば社

ケルビムやミカエル、ガブリエルなどの御使いとは違う存在であるのは明らかです。深く考えてみたい気持ちはありますが、おそらく考えても分からないでしょう。御国で明らかにされるのが楽しみです。

セラフィムには六つの翼がありました。そのうちの四つは「顔」と「足」をおおうために用いています。そして、残りの二つだけで「飛んでいる」のです。

神様の御前にはセラフィムでさえ顔と足をおおわなければ立ちえないということだと思います。それほど、神の臨在の中にいることは、神々しく恐ろしいものなのかもしれません。

「聖なる」ということが神の本質を表わすのは確実です。

ホセア11:9
わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。

「わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ」と主はご自身についてそう言われます。

イザヤ56:8~9
わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、あなたがたの道は、わたしの道とは異なるからだ。ー主のことばー
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

「人」の考えとまるで違う方であるのです。人の考えのはるかに及ばない方こそ「神」なのです。

イザヤが見た「セラフィム」は複数存在していて、彼らは互いに呼び交わして言っていました。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」

そして、続けて言います。

「その栄光は全地に満ちる」

セラフィムは「願って」いるのではありません。「宣言」しているのです。もしかすると、実際に「その栄光が全地に満ちる」ことを見ているのかもしれません。

三位一体の「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」の「その栄光は全地に満ちる」のです。

そして、このことこそ「主の祈り」において私たちがすべき宣言ではないかと思うのです。

天では「聖なるかな」と常に言い続けられています

黙示録4:8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

この四つの生き物がセラフィムなのかケルビムなのか、それとも違う生き物なのかは分かりません。セラフィムのようなケルビムのような生き物です。

彼らは「昼も夜も」言い続けている存在です。彼らは常に「宣言」し続けている存在です。

天においては、常に「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という声が響いているのです。

そして、同時にこの生き物は主をほめたたえる存在でもあります。

黙示録4:9
また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を御座について世々限りなく生きておられる方にささげるとき、

「聖なる方」にふさわしいのは「栄光と誉れと感謝」です。彼らは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と宣言しつつ「栄光と誉れと感謝」をささげているのです。

そしてまた、そのとき天にいる24人の長老はそれに呼応するかのように礼拝をささげます。

黙示録4:10
二十四人の長老は、御座についておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きている方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。

「聖なる方」こそ「唯一、栄光と誉れと感謝」を受けるにふさわしい方です。「聖なる」とは「聖別」です。ただこの方のみが高く上げられるのにふさわしい方であるという宣言です。

私たちは「聖なるかな」と言う宣言を聞くならば「ひれ伏して」「自分の冠」を御前に投げ出さなければなりません。

誰も、この方の御前に「自分の冠」をかぶり続けることなどできないからです。

冠を投げ出すこと

主が「聖なる方」であると宣言するならば、まずは、私がひれ伏さなければなりません。

主は、私にとって「唯一、絶対、至上最高の方」でしょうか。

私たちは自分の冠を被ったまま御前に出ることはできません。セラフィムは汚れのないきよい存在でしょうが、それでも顔と両足をおおって「聖なるかな」と叫んでいます。

長老たちの冠は、おそらく主から与えられたものだと思います。彼らへの報いの冠であったのでしょう。

Ⅱテモテ4:8
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

パウロの言う冠と投げ出された冠が同じであるかは分かりません。しかし、天において麗しく輝かしい方を拝するなら、私たちもきっと自然に冠を投げ出すのではないでしょうか。

その日には、私たちの報いが「主その方ご自身」であることが心の底から分かるでしょう。

今はまだ、私たちは天での光景を見てはいません。

しかし、冠を被ったまま礼拝ができないことは同じです。私は自分の「誇り」をかかげて御前にでることはできません。たとえ、それが主のために働いたという「誇り」であってもです。

私たちは、ひれ伏す必要があります。そうすれば、冠は勝手に頭からすべり落ちるでしょう。

私たちは、「聖なるかな、」聖なるかな、聖なるかな」と宣言し「ひれ伏す」ことによって、天の栄光の一端を味わうことができます。

その栄光は全地に満ちる

イザヤ6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

セラフィムの声によって、主の栄光が宮に満ちたのです。彼らが宣言した通り「その栄光が満ち」たのです。

煙とは主の栄光のご臨在のことです。

イザヤ4:5
主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される。

主は「煙」を創造される方です。この創造とは原語では「神にしかできない行為、御わざ」という意味で使われる語です。創世記1章1節の「創造」と同じ言葉です。つまり「神の創造」という意味でしか使用されないことばなのです。

主のご臨在を人工的につくり出すことなど絶対にできません。

賛美をささげることは素晴らしいことです。楽器は練習するべきでしょう。聖日礼拝は秩序正しく行われるべきです。何も間違っていません。しかし、それらのすべてを完璧に行ったからといって、主がご臨在を現わしてくださるとは限りません。

私の知り合いの姉妹に音楽のプロと呼べる人がいます。彼女が昔このような話をしてくれました。

私は、絶対音感が与えられているので、クラッシックの難しい曲をピアノが一音だけ外したとしても耳に障るのよ。だけれど、この前、完全に音程の外れた兄弟の賛美を聞いて涙が出たわ。彼は高齢で声も大きくはなかったけれど、彼の謙遜さと主への愛があふれた歌だった。あれが本当の賛美だと思うの。

礼拝はプログラムではないのです。私たちの思うように「臨在をコントロール」できると考えるのは大きな誤りです。そこに「真心」がなければ、主は決して喜ばれることはないでしょう。

イザヤが見た「煙」は、主が「神にしかできない御わざ」として創造されたものです。そこには「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」という叫びがありました。

主の御名が特別に取り分けられ、すべての存在の上に掲げられるとき、そこに「主の栄光が満ちる」のです。

「御名が聖なるものとされますように」との祈りは、「主の栄光が全地に満ちる」ためのものです。「主の御名は聖なるものとされよ」との宣言は、「すべてのものよ、主の御前にひれ伏せ」という布告です。

まずは、私が冠を投げ出すことです。

冠を投げ出す礼拝者が集う所には、主がその栄光を現わしてくださると私は信じます。

天の宣言に声を合わせて言います

「御名が聖なるものとされますように」と私たちは祈ります。

それは、言い換えるならば「世界よ、主こそ唯一の神であることを知れ」「すべてのものよ、イエス・キリストは主であることを知れ」という宣言です。

ピリピ2:10~11
それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

天で昼も夜も言い続けている生き物に、私たちの声も合わせようではありませんか。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」

天では、常に主の栄光が満ち溢れているのです。生き物の声は、今も言い続けているのです。

詩篇19:1~4(新改訳第3版)
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話しもなく、ことばもなく、その声もかれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てにまで届いた。

天は、神の栄光を語り告げているのです。私たちは、その声を聞くことはできないけれど、しかし、その呼び声は地の果てにまで届いているのです。

栄光が満ちる用意は整っているのです。

あとは、私たちがそれを解放するだけなのです。

この世の君、空中の支配者と呼ばれる者が覆いをかけているこの世に、神の栄光を解き放ちましょう。

私たちは、日々、主の御名を高く掲げましょう。何にも優る主の御名を全地に告げ知らせましょう。

御名が聖なるものとされますように。

御名があがめられますように。

聖であれ、主の御名。

私は今日も「御名が聖なるものとされますように」と祈ります。心を合わせて一緒に宣言しましょう。

私たちの行く先々に「主の栄光が満ち」ますように。

必ず「主の栄光が全地に満ちる」と私は心から信じます。

祝福を祈ります。