ローマ4:17
「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
笑う気持ちも分かります
アブラハムが「笑う」気持ちも分かります。
自分の名前は「多くの国民の父」と改名されました。まだ「一人の子の父」でもないのに、名前だけ「立派」になってしまいました。
百歳の自分と九十歳の妻を見て「笑う」しかありませんでした。
主が、本気で仰っているのだとしたら、それはもう「イシュマエル」が繁栄することしか考えられないと思ったのでしょう。
アブラハムは「イシュマエル」を差し出しました。なぜなら「イシュマエル」しか方法がないと思えたからです。
どう考えても、それが一番「現実的」な方法です。
しかし、主は「肉から生み出されたもの」を受け取ることはなさいません。
主はまだ見ぬ「イサク」と契約を立てると言われました。
「無いもの」を「有るもの」のように召しだされたのです。「イサク」は生まれる前から召されてました。
アブラハムは「選ばなければ」なりません。
「見えないイサク」か「今いるイシュマエル」か、どちらかを選ばなければなりませんでした。
アブラハムは「無いものを有るものとして召される神」を信じました。
そうして「アブラハム(多くの国民の父)」とされることを受け入れたのです。
この時からずっと、彼は「アブラハム(多くの国民の父)」として生きました。
「彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです」
自分を見て、サラを見たならば、不信仰の波にのみ込まれそうになります。誰かが「おや、一人も子がいないのに改名されたのですか。面白いですね」などと言ったかもしれません。
投げ出したくなりますよね。
「見ゆるところによらずして信仰によりて歩むべし」と決心した瞬間に「大きく揺さぶられる」ようなことが起こったりするものです。
しかし、それでも彼は「アブラハム(多くの国民の父)」として生きました。
「アブラハム」という名前と現実とのギャップを感じて落ち込むこともあったでしょう。反対に「アブラハム」という名前によって「前に進む勇気」を得た日もあったでしょう。
「望み」は、もうとっくに失われていました。彼は「自分」をあきらめました。そして、今「自分の肉の行いの実」による実現もあきらめたのです。
さあ、ここまでくれば「もう少し」です。
今まで「アブラム」として待った年月に比べれば「ほんの少し」待つだけです。
来年には「見えないイサク」を現実のものとして「その手に抱く」ことができるのです。
「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」ましょう。
「見えない神の御手」を信じましょう。
私たちも信仰によるアブラハムの子孫なのです。
私は見えるものではなく信仰によって歩みます
「無いものを有るもののように召される方」を信じます
主の約束は「御霊」によってのみ実現します