詩篇143:9
主よ 私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。
走って隠れれば大丈夫です
ダビデは言います。
敵がダビデを追いつめていました。
具体的に何があったのかは分かりませんが、ダビデの心は闇の中に閉じ込められているようでした。
ダビデの心は「荒れすさんで」いたのです。
以前の新改訳では「こわばって」と訳されています。口語訳では「荒れさびれて」です。新共同訳では「くじけて」と訳されています。今どきの言葉で言うならば「心が折れた」でしょうか。「干からびて」と訳すこともできますね。
ここに、あなたの心を写す表現はありますか。
あなたの心は「荒れさびれて」いるでしょうか。
それとも「こわばって」しまって何も響かないでしょうか。
あなたの心は「くじけて」しまったでしょうか。
ダビデの心は「荒れすさんで」いました。彼の心は「干上がって」しまって、もはや自分ではどうすることもできないのです。
ダビデの思いは「過去」に飛んでいきました。
「ああ、あのときは良かった…」と彼は思ったのです。
しかし「自己憐憫」には陥りませんでした。なぜなら、ダビデの「思い出」は、すべて「主の御業」と結びついているからです。
ダビデは「主のみわざに思いを巡らし」静かに考えたのです。
「昔の日々」を思い起こしたダビデは、主に「手を差し伸べ広げ」ます。
両手を上げ、主を呼び求めたのです。
ダビデにとって「昔の日々」は「主の臨在」と深く結びついています。
「昔の日々」を思い起こすことによって、荒れすさんだダビデの心に「主を慕う思い」が満ちあふれたのです。
ダビデは「隠れ場」である方を思い出しました。
羊を飼っていた少年の時も、サウルに追われ荒野をさまよった青年時代も、常に「主こそわが隠れ場であった」ということを思い出したのです。
主のうちに「身を隠す」ことを覚えましょう。
主は、私たちが走って行って「隠れる」ことを望んでおられます。
「荒れすさんだ心」をどうにかしようと、他のところへ走って行かないでください。
そんなことをしても「敵」はいなくならないし、心は干からびたままです。
私たちは「主に身を隠す」ことによって、苦しみから守られるのです。
「主に身を隠す」ことによって「救いの歓声」を再び聞くことができるのです。
「荒れた心」「くじけた心」「さびれた心」を抱えているなら、主との「思い出」を振り返りなさい。
あなたの両手を伸ばし「主よ、あなたを慕い求めます」と告白しなさい。
そうすれば、主に「身を隠す」ことができます。
主は、あなたがご自身のもとに「隠れ」に来るのを待っておられます。
主よ、あなたは干からびた心をご存知です
主よ、私はあなたを慕い求めます
あなたは私の隠れ場です