【Ⅰテサロニケ5:8】
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てをつけ、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
「かぶと」とは頭を守る武具です
パウロは、エペソ書で「神の武具」について記しています。
神の武具は「すべて」必要です。
しかし、これは私の経験上の感覚でしかありませんが、多くの人が「かぶと」をかぶることを忘れているように思います。実際、私自身がそうですから。
つまり、「頭」を守っていないということです。
信仰の大盾をもって身体をすっぽり覆っていても「頭」だけは出ているのです。「かぶと」をかぶっていなければ敵の攻撃によって傷を負ってしまうでしょう。
私たちは「頭の中」でいろいろなことを考えます。「頭」を守らないことは、敵に自分の「考え」を明け渡してしまうということです。
エペソ書では「救いのかぶと」と記されているので、私たちは「自分は救われている。基礎的なことは大丈夫だ」と思いがちです。
テサロニケでは「救いの望みというかぶと」と記されています。「救いの望み」が私たちの「頭」を守るのです。
私たちは「救いの望み」を「かぶと」としてかぶりましょう。
戦いは、私たちの「頭の中」にも仕掛けられてきます。
頭の中で繰り広げられる「議論」や「高ぶり」を打ち倒しましょう。すべての「はかりごと」を捕虜としてキリストに服従させましょう。
「かぶと」によって「頭」を守らなければ、私たちの考えは混乱してしまいます。または、簡単に騙されて「世の中」の形にはまってしまいます。
私たちは「頭」に攻撃を受けているので、失望したり、落胆したり、憂鬱になったりするのです。
なぜなら、敵は、「考え」の中に火矢を放って来るからです。
「さまざまな議論」など、私たちに必要ありません。「高ぶり」も捨てます。主の御心だけに従います。自分の「はかりごと」はすべて取り押さえます。
日々、「救いの望み」を告白することが大切です。
私たちの栄光の望みである方を見上げましょう。救いは、主から来ます。そして、それは確実なのです。
私は「救いの望み」をかぶります。
私の救いは主から来ます。
栄光の望みであるキリストを見上げます。