コロサイ2:9~10
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたはキリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
キリストこそすべての権威のかしらです
聖徒はみな、イエス様こそ「すべての権威のかしら」であることを信じているでしょう。
主イエスには「天においても地においても一切の権威がある」のです。
であるならば、なぜ、私は、こんなにも力なく弱々しく、世間に怯えて暮らしているのでしょう。
聖書は、「あなたはキリストにあって満たされている」と、はっきり言っているのに、なぜ、私は下を向いてトボトボと歩いているのでしょう。
パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と言っています。
私のうちにも「キリスト」が生きておられるはずなのです。
私は、神の御子を信じています。私はキリストとともに十字架につけられたのです。もはや私は生きていません。キリストが私のうちに生きておられるのです。
そうです。そのはずなのです。
それならば、なぜでしょう?
なぜ私は弱々しいのでしょう?
イエス様は、私のうちに生きられたとたんに、弱い、無力な方となられたのでしょうか?
もちろん、そのようなことは絶対にありません。
イエス様は「きのうも今日も、いつまでも同じ」です。永遠に「すべての権威のかしら」です。
力に満ちておられます。癒やしを行うことがお出来になります。奇跡を起こされます。悪霊を追い出されます。
イエス様は、親切な方です。あわれみ深い方です。誠実で、寛容で、愛にあふれておられます。
反対に私が、弱く、みじめで、癒しも行えず、愛もなく、トボトボと歩いているのは「信じていない」からです。
私は「神の御子に対する信仰」によって歩まなければなりません。
私は「満たされている」と信じなければなりません。
私のうちに「キリストが生きている」ことを信じる必要があるのです。
神の恵みは「信仰によって」現実に働くのです。
神の恵みは、いつもありますが、それは「信じる」ことによって具体化するのです。
私は「うちにおられる方」を信じます。
私のうちにおられるイエス様が「親切」なので、私は親切にできます。
私のうちにおられる方は「完全」なので、私は「傷のない者」です。
私のうちにおられる方は「偉大」なので、私は「勝利者」です。
主が癒し主なので、私は主の癒しを現わすことができます。
主は奇跡を起こされる方なので、私を通して奇跡は現れます。
あなたのうちにおられる方は、決して病弱な方ではありません。ですから、あなたは健康に歩めます。
あなたのうちにおられる方は、愛にあふれた方なので、あなたは愛を流すことをができるのです。
あなたのうちには「すべての権威のかしら」である方がおられます。何を恐れることがあるでしょう。
私たちは「うちにおられる方」にもっと信頼しましょう。私にはできません。しかし、私のうちにおられる方にはできます。
「神の満ち満ちたご性質を宿す方」が、私たちのうちに「満ちて」おられるのです。
信じて、告白するのです。告白は鍵です。信仰は「言い表す」必要があるのです。
信じましょう。そして、告白しましょう。
そうすれば「キリスト」が輝いてくださいます。
私のうちにはキリストが生きておられます
主は「すべての権威のかしら」です
私は、満ち満ちています

