ヘブル11:6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
求める者には報いてくださる方であることを信じなければなりません
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
私たちは信じなければなりません。
私たちは「神が求める者には報いてくださる方」であることを信じなければならないのです。
それは「神のご性質」を信じるということです。
イエス様は、「天におられる父は良いものを与えてくださる方」であると言われました。
私たちは、「良いものをを与えてくださる方」に祈っているのです。
主は、あなたに必要なものを知っておられます。そして、あなたにとって「良いもの」を与えたいと望んでおられます。
ぶどう園の主人は、自分のことを「気前がいい」と言っています。
この「ぶどう園の主人」とは、もちろん「御父の型」です。
私たちの「天の父」は「気前がいい方」なのです。
主は「豊かな神」です。「恵み深い神」です。「惜しげもなく御子をさえ与えられた方」です。
主は「あふれんばかり」注がれる方です。
ダビデの食卓は「豊か」です。ダビデの杯は「あふれて」います。
しかも、それは「敵が見える所」での「豊かさ」です。
ある人は「神の豊かさとは『やり過ぎ』のことだ」と言いました。
主は「これでもか」というほどに与えてくださるという意味です。
イエス様の「尊い血」は「一滴」でも十分でした。しかし、主は「すべての血」を注がれました。それは「充分以上」です。
あなたは、主が「報いてくださる方」であると信じますか。
主は「良いものを与えてくださる方」であると信じますか。
それも「気前よく」「豊かに」「あふれんばかり」に与えてくださると信じますか。
主は「いつくしみ」と「恵み」に命じて言われます。
「さあ、いつくしみよ、恵みよ、わが子のあとを追え。どこまでも、いつまでも追って行け」
私たちは、主が「恵もうと待っておられる方」であることを信じなければなりません。
もし、見える世界が「豊かさ」や「恵み」を否定したとしても、それでも「見えない神の恵みの御手」があなたを覆っていることを信じなさい。
神に近づく者は「神が報いてくださる方」であることを信じなければならないのです。
私たちは「見えない神がおられる」ことと「まだ見ぬ報いを与えてくださる方」であることを信じます。
それが信仰によって生きるということです。
主は、豊かに報いてくださいます
いつくしみと恵みが、私のあとを追っています
私の杯はあふれています