No.439 私は「信じなければ」なりません その①

追いかける

ヘブル11:6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。

「神がおられること」を信じなければなりません

私たちは信じなければなりません。

もし、あなたが「神に喜ばれたい」と思うなら信じなければなりません。

もし、あなたが「神に近づく者」でありたいと願うなら信じなければならないのです。

私たちは「神がおられること」を信じなければなりません。

それは「神の存在」を信じることです。

私たちは「神の存在」を信じています。

しかし、実際のところ「神は存在する」以上の方です。

見えない神は、見える世界がすべて消え失せても「そこに存在する方」です。

私の生きている「現実」が消えても、神だけは「存在」されます。それが「神がおられる」と言うことです。

「神がおられる」ことを信じるのです。

すべての「頼み」が失せても「神はおられ」ます。

見えるすべての「望み」が消え失せても「神がおられ」ます。

ローマ4:18~19
彼は望み得ない時に、望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

アブラハムの「見える世界」は、すべてが崩れ落ちていくようでした。

「子孫の約束」は、永遠に実現しないように見えました。

「見える世界」において、その約束は「不可能」となりました。

しかし「望み」をすべて失ったアブラハムは、なおも「望みを抱いた」のです。

アブラハムの「抱いた望み」とは「神ご自身」です。

「見える世界」の可能性がすべて消え失せたとき、ただそこには「神がおられた」のです。

アブラハムは「見える世界」より「見えない神」のほうが「現実なのだ」と認めたのです。

アブラハムは「見えない神」の存在を確信していました。そして「見える世界」で生きるのではなく「信仰によって」生きることを選んだのです。

信仰とは「見えない神」が「おられる」のだと信じることです。

「見える世界」よりも「見えない神」のほうが「現実なのだ」と認識することです。

あなたは「神がおられる」ことを信じますか。

あなたは「信仰によって」生きることを選びますか。

主は生きておられます。

あなたの行くところどこにおいても「主がおられる」ことを認めなさい。

箴言3:6(新改訳第二版)
あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

主は、今日も「ここにおられ」ます。

信仰とは「いつでも」「どこでも」「どんなときでも」神がおられると信じきることです。

私は「神がおられる」ことを信じます
主は、見える世界よりも「現実」です
私は信仰によって生きます