黙示録3:10
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。
忍耐についてのことばを守ったから
フィラデルフィアの教会への手紙を学んでいます。
彼らは「少しばかりの力」で、主のみことばを守り、主の御名を否まなかったと称賛された教会でした。
続けてイエス様は、彼らの「忍耐」についても言及されます。
フィラデルフィアの教会は「忍耐の教会」です。「忍従の教会」などと呼ばれることもあります。
私たちも「忍耐の教会」「忍従の教会」でなければなりません。
必ず「終わり」が来ます。それは、確実なことです。私たちは、それが「いつ」とか「どんなとき」であるかを知る必要はありません。もちろん、それは知ろうとがんばっても分かることはできませんが。
私たちに求められているのは「最後まで耐え忍ぶ」ということだけです。主は、私たちに「忍耐」するようにと命じられているのです。
主の「忍耐についてのことば」を守った者に対して、イエス様は力強く宣言してくださいます。
「わたしもあなたを守る」
これ以上、心強い約束はありません。主が守ってくださるのです。誰が、何が、私に危害を加えることができるでしょう。
終わりの日に生きる聖徒に最も必要な資質は「忍耐」であると私は思います。
私たちは「忍耐」しましょう。
この「忍耐」という語は、「苦難を耐え忍ぶ」とか「堅忍」などと訳すことができます。個人的には「堅忍」という訳が好きです。
「堅忍」とは、辞書には「ただ我慢することではなく、強い意志と不屈の精神を伴う」と書いてありました。
私たちの「忍耐」は、ただ「我慢する」だけのことではなく、そこに「心が伴う」ものです。
「主だけを見上げて進むのだ」「右にも左にも逸れるものか」という強い思いが伴うものです。つまり「ただ我慢する」という「消極的忍耐」ではなく、意志の伴う「積極的忍耐」こそ、聖徒の「忍耐」であるということです。
約束の地に入る時、ヨシュアもそのように決意したのです。主は、ヨシュアに命じられました。
目の前に開かれた、その進むべき門が、どのように見えたとしても恐れてはなりません。
これから、私たちは「多くのうわさ」を聞くでしょう。そして「多くの惑わし」が行われるのを見るでしょう。
「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時」が来るからです。
しかし、雄々しくありましょう。強くありましょう。おののいてはなりません。
今は「忍耐」を働かせるときです。「信仰」によって堅く立つときです。
多くの惑わしが起こります。至る所で「本当らしき話」が飛び交うでしょう。
それらの「予言」の中には「本当にその通りになる」こともあるだろうと私は思います。「偽預言者」とは、いつも「間違った預言」をする人のことだと思っているのなら、あなたが惑わされる可能性は高いでしょう。
「偽預言者」の所謂「予言」が、実際に「起こる」ことはあり得ます。
彼らは「唯一のまことの神からのことば」を語っていないので「偽預言者」と呼ばれますが、どこか別の「何か」の声を聞いて「予言」しているということはあり得るのです。それは「予言」かも知れませんが、決して「預言」ではありません。本当の預言者は「主のことばを預かって言う者」だからです。
エジプトの呪法師たちも、ある程度まで、アロンと同じことができたのです。
エジプトの呪法師たち、ヤンネとヤンブレは「真理に逆らう、知性の腐った者」です。そのような人たちが、モーセに逆らい「不思議なこと」を行ったのです。
ですから「霊だから」といって、すべてを受け入れてはなりません。
「そこにキリストがいる」などというデマに飛びつく聖徒なんていない、自分は大丈夫だと考えているのなら、そのような人ほど惑わされることになるでしょう。
終わりのとき「神のみことば」に対して「不誠実な人」は、騙されて堕落します。
しかし、フィラデルフィアの教会のように「主のことばを守り、主の名を否まない」聖徒は騙されません。
終わりの日に必要なのは「自分の神を知る」聖徒です。
「信仰告白はしましたよ」「洗礼は受けていますよ」「毎週、教会に通っていますよ」と人々は言うかもしれません。「私は信じている」と多くの人が言うでしょう。
しかし、ヤコブ書に、いつ読んでも怖いと思う聖句があります。
恐ろしいですね。私の「信じている」が、悪霊の「信じている」と違うことを、どのように証明すればよいのでしょう。
それは、実は簡単なことなのです。
私は「イエスを、自分の主と告白して従っている」けれど、悪霊は「神の存在を信じてはいるが、決して、自分の主と告白しないし従うこともない」のです。彼らは「存在を信じて身震い」していますが、決して「信仰」を持つことはできません。この違いは、とても大きいのです。
あなたは「自分の神」として、イエス様を知っていますか。
イエス様を「私の神」「私の主」と告白していますか。
終わりの日に「堅忍」できるのは「自分の神」を知る聖徒だけです。
そして「堅忍」する聖徒は、主イエスによって完全に守られるのです。
全世界に来ようとしている試練の時
もう一度、黙示録3章10節を読みましょう。
イエス様は「試練の時」が来ようとしていると言われました。
それは「全世界に来ようと」している試練です。「地上に住む者たちを試みる」ための試練です。
これは「世の終わりの患難」のことを言っておられるのだと思います。
さて、少し考えてみましょう。
ここで「試練の時に守られる」のは「フィラデルフィアの教会」です。つまり「忍耐についてのことばを守った教会」のことです。これについては明らかですね。
問題は「守られ方」です。
この場合、二通りの解釈ができます。
一つ目は「試練の時から」守られるという解釈です。
新改訳では「試練の時には」と訳されていますが、原語では「~の中から」という前置詞が用いられています。
そうすると「試練の時から守る」「試練の時の中から守る」と訳すことができます。
つまり「忍耐した教会」は「大患難を通過しない」と解釈できます。
ですから「フィラデルフィアの教会」は「携挙される教会の型だ」という先生もいます。
これが「患難期前携挙説」と言われる解釈です。「再臨前携挙説」と呼ぶ人もいます。
二つ目は「試練の中で守る」と解釈する説です。
「試練の時から」を「試練の最初から終わりまで」と解釈します。
こちらの解釈ですと「フィラデルフィアの教会」は「試練を通過するが守られる」ということになります。
これが「患難期後携挙説」と呼ばれるものです。もしくは「再臨・携挙同時説」などとも言います。
もちろん、この二つ以外にも様々な解釈があります。「患難時代などない」「再臨などない」という人もいます。
しかし、私は、イエス様は必ず戻って来られると信じています。そして、「携挙」があるとも信じています。
ですから、そもそも「再臨などない」という説を考慮する気はありません。それは時間の無駄です。
イエス様が「わたしはすぐに来る」と言われるのです。議論の余地はありませんね。
ただ「携挙の時期」については「患難後携挙説」を唱える先生方にも耳を傾けるべきだと思います。とても勉強になります。(ちなみに、患難期中携挙説というのもあります。)
これは、個人的な意見になりますが…
実際、私自身も「患難期前携挙説」にすべて同意しているわけではないのです。どちらかと言えば「患難期中携挙説」の方がしっくりくるかもと思っています。ただ、たいていの場合、「前」ですか「後」ですかと尋ねられるので「どちらかと言えば『前』です」と答えることが多いだけです。
しかし「携挙」があることについては、疑いの余地はないと考えます。
そしてまた「再臨」があることも疑いの余地はありません。
ということは「大患難」も必ず起こるということです。
それは「局地的なもの」でも「イスラエルだけ」に起こるものでもありません。
「世界中」が試みられるのです。
「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時」に、私たちは「守られる教会」でしょうか。
私は、こんなことを言うと怒られるかなと思いますが、まあ、仕方ありません。甘んじて怒られましょう(笑)
私は、教会に通っている人のすべてが「守られる」とは思いません。
つまり「患難期前」か「後」かは置いておくとして、実際に「携挙」される人は、私たちが考えるよりも少ないのではないかと思うのです。
「フィラデルフィアの教会」が「携挙される教会の型」なのだとすれば「少しばかりの力」しかない「小さな群れ」が、携挙されるのだということになります。
「ノア」は、大患難を通過した聖徒の型であると言われます。彼らは「8人」でした。それでも「わずか」です。
「エノク」は、携挙される聖徒の型であると言われます。彼はたった「1人」でした。
こう考えると、やはり携挙される人は少ないのではと思えます。
しかし、先に述べたように、実は、地上に残される者の方が多いのです。現在20億人いるクリスチャンが全員携挙されるわけではないのです。~中略~
名前だけのクリスチャンが携挙されるわけがありません。ですから携挙されないで地上に残るクリスチャンの方が、携挙されるクリスチャンよりも多いのです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
エノクが「携挙」の型であるとすれば、携挙されるために必要なことが見えてきます。
「携挙」に必要なのは「信仰」です。
それも「神の存在を信じている」という程度のものではなく「神に喜ばれる信仰」が必要なのです。
その「信仰」を私たちが持っているならば、私たちは「神とともに歩む」者であるはずです。
主とともに歩みましょう。エノクのように神とともに歩みましょう。
目に見えない方を見ているようにして、忍び通しましょう。
主はすぐに来られます。私たちは、連れ去ってもらえます。
必要なのは「携挙」を信じる信仰です。見えないものを見る信仰です。見えない方と歩む信仰なのです。
「携挙」については、また黙示録4章に入ったときに、もう少し詳しく学びたいと思います。
わたしはすぐに来ると言われます
「わたしはすぐに来る」とイエス様は言われます。
このことばは「少しの力しかない教会」にとって大いに慰めとなったでしょう。彼らの「忍耐」は報われます。
主は「すぐに」来られるのです。
忍耐して備えをしている聖徒にとって、主が来られることは慰めです。今か、今かと待っているのですから、それは不意打ちとはなりません。
しかし、サルディスの教会のように「不注意」であれば、主の来られる日は「盗人のように」やって来ます。
主は、サルディスの教会に言われました。
目を覚まさないのであれば「常に夜を生きている」のと同じです。そのような人は暗闇の中を生きているのです。つまり「見えてるつもり」「起きているつもり」ということです。サルディスの教会は「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と言われたのです。
「わたしはすぐに来る」とイエス様は言われます。
私たちは、それを聞いてどう反応するでしょうか。
「ハレルヤ! 主イエスよ、来てください」と叫ぶ聖徒は幸いです。
私たちにとって、イエス様の来られることは最も素晴らしい慰めです。
確かに、フィラデルフィアの教会の人々は、このことばを励ましとして歩んだだろうと思います。
苦難、迫害に遭う時、彼らは励ましあっただろうと思います。
「恐れないでいよう。主は、すぐに来られると言われたじゃないか」と。
愛する兄弟姉妹。
あなたにとって「わたしは、すぐに来る」とのおことばは慰めとなりますか。
勇気をもって日々を歩むための励ましとなるでしょうか。
主はすぐに来られます。それは、確実に近づいています。
しかし、私たちは「ずいぶん待っている」ように感じてしまいますね。
覚えてください。
主は、フィラデルフィアの教会の忍耐について言及されましたが、主ご自身も「忍耐」してくださっているのです。
主は「すぐにでも来られる」のです。しかし、今はまだ「忍耐」しておられるのです。
なぜなら、今は「救いの日、恵みの日」だからです。
主の「いつくしみ深さ」が私たちを悔い改めに導きます。
主の「豊かないつくしみと忍耐」は恵みの現れです。
主が「忍耐」してくださっているのです。私たちも「忍耐」しましょう。
今ある、主の「豊かないつくしみと忍耐」を決して軽んじてはなりません。
今ある「豊かないつくしみと忍耐の日」は、必ずいつか終わります。
それまでの間、私たちは祈りましょう。祈り続けましょう。
主が来られるとき、私たちは「信仰」をもって待ち望んでいなければなりません。
あなたの冠をだれにも奪われないように
主が来られるのを待ち望む間、私たちには守らなければならないものがあります。
「自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい」
私たちは「自分の冠」を奪われないように保つ必要があるのです。
冠は、主が下さるものです。しかし、それは放っておけば「奪われる」のです。
ここで「冠」と訳されている語は「しゅろや月桂樹などの枝や葉で編んだ冠」のことです。「リース」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。競技の勝利者にかぶらせた「冠」です。
私たちが持っている「冠」とは「勝利者の冠」であると言えます。
私たちは、御子イエスを信じる信仰によって、今すでに「勝利者」です。
しかし、その「勝利者の冠」を奪おうと狙っている者がいることを忘れないでください。
私たちは「勝利者」なのです。
しかし、多くの主にある聖徒が「敗北者」のように生きているのはナゼでしょう?
パウロは、私たちは「圧倒的な勝利者だ」と言いました。
しかし、私は、ナゼ「かろうじてギリギリ勝利を保っている」かのように生きているのでしょう。
「勝利の冠」が「奪われて」いるからです。もしくは「奪われかけている」のです。
あなたの「冠」を奪わせてはなりません。
あなたの持っているものを「しっかり」保ちなさい。
これは個人的な意見ですが…
「勝利の冠」が奪われた証拠は「喜びを失うこと」ではないかと思います。
あなたは「栄えに満ちた喜びに踊って」いますか。
私は、日々、「ことばに尽くせない喜び」を感じているでしょうか。
やる気なく、意気消沈して、憂鬱そうな勝利者はいません。勝利者はみな「喜び勝ち誇る者」です。
主が、私たちの罪を取り除かれました。そして、主は、私の敵を追い払われました。主のゆえに、私は「勝利を得た」のです。
ゆえに私たちは「喜び勝ち誇る」のです。
あなたの「冠」を決して奪われてはなりません。
私たちは「勝利者」として歩みましょう。下を向かず上を見上げて歩みましょう。
「冠」を奪われない秘訣は「主イエスを喜ぶこと」です。「主を喜ぶこと」が私たちの力なのです。
「喜び勝ち誇り」ましょう。主イエスの勝利を喜び叫びましょう。
主は、すぐに来られます。
私たちの手も心も天におられる主に上げましょう。そうして、待ち望むのです。
マラナタ、主よ、来てください。
すぐに来る方を、日々、待ち望む人は幸いです。堅く信仰に立つ人は幸いです。忍耐についてのことばを守る人は幸いです。
祝福を祈ります。