【創世記43:14】
全能の神が、その方の前でお前たちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失う時には失うのだ。
失うときには失うのだ
「失う時には失うのだ」そのように決心した時のヤコブの気持ちを考えると切ない思いになります。
愛する妻ラケルを失った今、ヤコブにはベニヤミンしかいないのです。ここでヤコブの偏愛については、今日は考えません。確かにヤコブの愛情は偏ってます。主は族長ヤコブの品性をここで取り扱っておられるのでしょう。
ヤコブは追い詰められて、仕方なく握っているものを手放しました。
けれど私たちは知っています。ベニヤミンを要求しているのは「ヨセフ」であるということを。
ヤコブは「横暴なエジプトの権力者」が愛する息子を奪うのだと思っていたでしょう。だから、「失うかもしれない」「たぶん失うだろう」「失うときは失うのだ」と悲痛な思いで決心したのです。
しかし、実際には、ヤコブはベニヤミンを手放して「ヨセフ」を取り戻したのです。そして、失うだろうと思ったベニヤミンとシメオンも同時に取り戻したのです。
ヨセフはイエス様の型と言えます。
穴に投げ込まれて、売り渡され、牢に入れられ、そしてエジプトの支配者となりました。このヨセフの生涯は、主イエスが裏切られ、十字架にかけられ、墓に葬られ、よみがえられ、統治されることの予表です。
ヤコブは、ベニヤミンを手放しました。そしてヨセフ(主イエス)を取り戻したのです。
あなたには、ヤコブの「ベニヤミン」のようなものがありますか?
失いたくないと握りしめているものは何でしょう?
イエス様は言われます。
私たちは、握っているものを手放したら「すべてを失う」と思います。
しかし、ヤコブを思い出してください。「ベニヤミン」を要求したのは「ヨセフ」だったのです。
そして、「あなた自身を献げよ」と私たちに要求しておられるのは「イエス様」なのです。
私は「私自身」を手放します。
そうすれば、私は、「イエス様」を得るでしょう。この方こそ、私の「いのち」です。
私は自分のいのちを自分で守りません。
私のいのちは主の御手にあります。
私は主のものです。