No.114  「この」希望は失望に終わりません

灯台と船

ローマ5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

失望に終わらないのは「この」希望です

御言葉に反することを言うようですが、私たちの希望は失望に終わります。

私は、いくつもの希望を抱きましたがことごとく失望しています。

どうして、自分の希望は失望に終わるのか、なぜ、主は何も事を起こして下さらないのか、そのように何年も考えていました。

主がくださった「夢」だと思ったことさえ、成就しなかったときには、信仰が揺らぎました。

そして、もう希望を抱くのが嫌になりました。

結局、何も起こらないとあきらめるようになりました。

しかし、私の希望が失望に終わるのには理由があったのです。

実際、それは「希望」ではなかったのです。

聖書は「この」希望は失望に終わらないと言っています。

「私の」希望ではなく「この」希望が失望に終わらない希望なのです。

ローマ5:3~4
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

「練られた品性が希望を生み出す」と聖書は言います。

そして、「練られた品性から生み出された希望」こそが「この希望」つまり「失望に終わらない希望」なのです。

「私の希望」である限り、それは失望に終わるでしょう。

失望に終わるならば幸いです。

その苦難によって忍耐が生まれます。「主を待ち望む」という忍耐です。そして、その忍耐は練られた品性を生み出します。それは「へりくだり」という品性です。

そこから生まれるのは「私の時は御手の中にあります」という告白です。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という賛美です。

そして、それこそ「この」希望、つまり、失望に終わることのない希望が生み出される土壌なのです。

失くした夢や希望をいつまでも悔やむ必要はありません。

自分の怠慢、罪、能力の無さが希望を失わせたのかと嘆く必要もありません。

たとえ、私たちが愚かであったとしても、「本物の希望」であったなら失われることなどないのです。

「この」と呼ばれる希望こそが本物なのです。あなたは、それを掴むことはできません。希望は「生み出すもの」だからです。

それは、「私の希望」が失望に終わった後、生み出されるものです。

そして、「この」希望こそ、失望に終わることがないのです。

主よ、私の時は御手の中にあります。
あなたのなさることを信頼します。
主の御業は時にかなって美しいからです。