No.313 御子をさえ惜しまずに与えてくださった方を信じます

美しい愛

ローマ8:32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

いのちは血の中にあります

「いのちは血の中にある」と主は言われます。

レビ17:11
実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいの宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。

これは「たましは血の中にある」と訳すこともできるようです。主は「血」を「たましいのために宥めを行うように」と与えられました。

宥めを行うのは「血」なのです。

イエス様が「血」を持たれたのは「宥めを行うため」です。それは「永遠の昔からの計画」でした。

ヘブル9:22
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

言い換えれば「罪を赦したい」ので「血を流された」ということです。

御父は、私たちを「赦したい」と望まれたのです。その願いを現実のものとするために「御子に血と肉を与えられた」のです。

御父は「わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた」と言われたのです。

つまり、ここに「御子をさえ惜しみなく死に渡された」という御思いが表されているのです。

ヘブル10:5
ですから、キリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。」

御子イエスもまた御父の思いを受けて「わたしに、からだを備えてくださいました」と言われます。

言い換えれば「これで、宥めのための血を流すことができます」と言われたのです。

十字架で、イエス様は私たちの「贖いの代価」として、ご自身の「いのち」を差し出されました。惜しみなく「血の中にあるいのち」を注ぎだされました。

それは、すべて私のためなのです。イエス様が打たれたので、私は平安を得たのです。

イザヤ53:10
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末永く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

すべて「御父のみこころ」でした。

イエス様が「ご自分のいのちを代償のささげ物」とすることは、御父のみこころを成し遂げることでした。

私には、分からないことがいっぱいあります。納得できないことが多々あります。「どうして、神様」と叫びたくなるような出来事も起こります。

けれど、十字架を見上げるとき、すべてのことは取るに足りないことだと思えます。

何が起こっているのか分からないことがあります。信じているものが崩れ去ることがあります。ときには、つまづくこともあります。御言葉でさえも、疑ってしまいそうになります。

しかし、この方の流された「血」を見上げるとき、その御業に現わされた御思いだけは疑うことができません。

神の愛は明らかです。それは、疑いようがありません。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神」を信じましょう。

御父の愛を信じることができれば、ほとんどの問題は「取るに足りないこと」になります。

イエス様の「血」を見上げるならば、それを信じるのは容易なことなのです。

イエス様の血潮を感謝します
いのちのすべてを流されたことを感謝します
御父が私のために御子イエスを死に渡されたことを信じます。