ローマ8:32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
いのちは血の中にあります
「いのちは血の中にある」と主は言われます。
これは「たましは血の中にある」と訳すこともできるようです。主は「血」を「たましいのために宥めを行うように」と与えられました。
宥めを行うのは「血」なのです。
イエス様が「血」を持たれたのは「宥めを行うため」です。それは「永遠の昔からの計画」でした。
言い換えれば「罪を赦したい」ので「血を流された」ということです。
御父は、私たちを「赦したい」と望まれたのです。その願いを現実のものとするために「御子に血と肉を与えられた」のです。
御父は「わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた」と言われたのです。
つまり、ここに「御子をさえ惜しみなく死に渡された」という御思いが表されているのです。
御子イエスもまた御父の思いを受けて「わたしに、からだを備えてくださいました」と言われます。
言い換えれば「これで、宥めのための血を流すことができます」と言われたのです。
十字架で、イエス様は私たちの「贖いの代価」として、ご自身の「いのち」を差し出されました。惜しみなく「血の中にあるいのち」を注ぎだされました。
それは、すべて私のためなのです。イエス様が打たれたので、私は平安を得たのです。
すべて「御父のみこころ」でした。
イエス様が「ご自分のいのちを代償のささげ物」とすることは、御父のみこころを成し遂げることでした。
私には、分からないことがいっぱいあります。納得できないことが多々あります。「どうして、神様」と叫びたくなるような出来事も起こります。
けれど、十字架を見上げるとき、すべてのことは取るに足りないことだと思えます。
何が起こっているのか分からないことがあります。信じているものが崩れ去ることがあります。ときには、つまづくこともあります。御言葉でさえも、疑ってしまいそうになります。
しかし、この方の流された「血」を見上げるとき、その御業に現わされた御思いだけは疑うことができません。
神の愛は明らかです。それは、疑いようがありません。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神」を信じましょう。
御父の愛を信じることができれば、ほとんどの問題は「取るに足りないこと」になります。
イエス様の「血」を見上げるならば、それを信じるのは容易なことなのです。
イエス様の血潮を感謝します
いのちのすべてを流されたことを感謝します
御父が私のために御子イエスを死に渡されたことを信じます。