【詩篇106:23】
それで神は「彼らを根絶やしにする」と言われた。もし 神に選ばれた人モーセが 滅ぼそうとする激しい憤りを収めていただくために 御前の破れに立たなかったなら どうなっていたことか。
本当にどうなっていたことかと思います
モーセは常に「御前の破れ」に立ち続けました。
「今は、わたしに任せよ」と主はモーセに言われました。
しかし、この時、「主にお任せする」とどうなったのでしょう。
「わたしは、彼らを立ち滅ぼす」と主は言われたのです。そして「モーセを大いなる国民とする」と言われました。
モーセは、「主よ。あなたにお任せします」とは言いませんでした。
「そうですね。彼らは悪すぎます。新しく始められるのがいいでしょう。」とは言わなかったのです。
この時も、その後も、ずっと生きている限り「御前の破れに立ち続けた」のです。
そして、実に、それこそ本当に、主が望んでおられることでした。
「御前の破れに立たなかったならどうなっていたことか」と詩篇の記者は言います。そして、エゼキエル書にその答えがあります。
主は「破れ口」に立つ者を探されました。しかし、「破れ口に立つ者」は見つかりませんでした。それで、主の激しい憤りは注がれました。
主は、人を滅ぼしたいとは望んでおられないのです。悪者であっても「立ち返って生きる」ことを望んでおられるのです。
主は、モーセのように、アブラハムのように、神と人との間に立って「とりなす者」を求めておられます。いつも「破れ口に立つ者」を探しておられるのです。
終わりの時代の今も、主は、人が滅びることを望んではおられません。
主は、今の時代も「破れ口に立つ者」を探しておられます。
モーセは、「アブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください」と嘆願しました。
主は「真実」の神です。ご自身の約束を必ず果たしてくださいます。「アブラハム、イサク、イスラエル」のゆえに「あわれみ」を注いでくださいと願ったのです。
私たちは「イエス・キリストの御名」のゆえに「あわれみ」を乞い願いましょう。「罪について、義について、さばきについて」世が誤りを認めて悔い改めるように願い求めましょう。
モーセが、本当の「主の御思い」を悟って受け入れられる「とりなし」をしたように、私たちも「主に喜ばれる」祈りをささげることができます。